アレクサンドル・ヴァシレフスキー


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(2015年11月)

アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ヴァシレフスキーワシレフスキーロシア語: Алекса́ндр Миха́йлович Василе́вский、ラテン文字表記の例:Aleksandr Mikhaylovich Vasilevsky1895年9月30日 - 1977年12月5日)は、ソビエト連邦政治家軍人ソビエト連邦軍司令官。ソ連邦元帥(1943年)、ソ連邦英雄(2度)。スターリンの時代に軍事人民委員陸軍大臣を務めた。

アレクサンドル・ヴァシレフスキー

Алекса́ндр Василе́вский

生年月日 1895年9月30日
出生地 ロシア帝国の旗 ロシア帝国 ヴィチュガ
没年月日 1977年12月5日(82歳没)
死没地 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ
出身校 アレクセーエフ軍事学校
所属政党 ソビエト連邦共産党
称号 勝利勲章(2度)
一級スヴォーロフ勲章
レーニン勲章(8度)
赤星勲章
配偶者 セラフィマ・ヴォロノヴァ
エカテリーナ・サブロワ
子女 ユーリ・アレクサンドロヴィッチ・ヴァシレフスキー(セラフィマとの間に誕生)
イゴール・アレクサンドロヴィッチ・ヴァシレフスキー(エカテリーナとの間に誕生)

在任期間 1950年2月25日 - 1953年3月15日
閣僚会議議長 ヨシフ・スターリン

在任期間 1949年3月24日 - 1950年2月25日
人民委員会議議長 ヨシフ・スターリン
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アレクサンドル・ミハイロヴィチ・ヴァシレフスキー
Алекса́ндр Миха́йлович Василе́вский

ヴォロネジ・ハリコフ攻勢英語版中に作戦を調整するヴァシレフスキー(中央)とフィリップ・ゴリコフ大将(右)1943年

所属組織 赤軍
ソビエト連邦軍
軍歴 1915年-1959年
最終階級 ソ連邦元帥
墓所 クレムリンの壁
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経歴

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出自

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1895年9月30日にロシア帝国のヴィチュガにて、8人の子の4番目に誕生する。司祭の家庭であり、生活は貧しかった。神学校で学んでいたが、第一次世界大戦の勃発を受けて軍人を志す。1915年2月にアレクセーエフ軍事学校に入校し、戦時の速成教育のため4ヶ月で卒業した。卒業後は准尉としてノヴォホペル連隊に入隊し、革命までに大尉、大隊長に昇進していた。

両大戦間

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1919年に予備連隊の副小隊長として赤軍に入隊し、間も無く中隊長、大隊長となった。第11ペトログラード狙撃師団第429狙撃連隊副連隊長として、白衛ポーランド軍と戦う。その後第48狙撃師団長となる。

 
ヴァシレフスキー(1928年)

1931年5月に労農赤軍戦闘訓練局に移り、縦深戦闘戦術の立案に参加した。この頃ゲオルギー・ジューコフと知り合う。1931年から1936年に国防人民委員部参謀勤務学校を経て、沿ヴォルガ軍管区参謀部で勤務した。

1936年秋、創設されたばかりの参謀本部アカデミーに入校。その後参謀本部アカデミーの講座長を務め、1937年10月、参謀本部勤務に戻る。参謀本部では、ボリス・シャポシニコフの庇護を得て、ヨシフ・スターリンにも紹介された。1940年5月に参謀本部作戦局副局長となり、ドイツ派遣のソビエト連邦政府代表団に加わる。

独ソ戦

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スターリングラード近郊で破壊されたドイツ軍の装備を視察するヴァシレフスキー(左)とフルシチョフ(1943年)
 
1944年、捕虜になったアルフォンス・ヒッター中将英語版を尋問するヴァシレフスキー元帥(テーブル中央)とイワン・チェルニャホフスキー大将(テーブル右側)

第二次世界大戦勃発後、1941年秋に参謀次長/作戦局長に任命され、モスクワの防衛を準備し、12月1日にはドイツ軍に対する逆襲計画を立案した。

1942年初め、モスクワの防衛成功に気を良くしたスターリンは、全戦線で攻勢に転移することを決定した。シャポシニコフ参謀総長とヴァシレフスキーは、これに反対したがこれを止めることはできなかった。赤軍の攻勢は失敗し、同年春、シャポシニコフは体調を崩し、ヴァシレフスキーが参謀総長代行となった。同年6月24日、ヴァシレフスキーは正式に参謀総長となった。スターリングラード攻防戦時、同方面の3個戦線の行動を調整し、勝利に導いた。

1943年2月16日にソ連邦元帥に昇進(開戦時は少将に過ぎず、昇進の速さはジューコフに次ぐ)した。同年夏、ソ連はドイツ軍のクルスク攻勢を察知し、ジューコフと共に防衛計画を立案した。

1944年春まで南部と南西戦線(後に第3と第4ウクライナ戦線)の行動を調整した。セヴァストポリ攻略時、乗車していた車が触雷し軽傷を負い、久しぶりにモスクワで休暇を取ることができた。バグラチオン作戦時、第1沿バルトと第3白ロシア戦線の行動を調整し、その功績によりソ連邦英雄の称号を授与された。

1945年2月、第3白ロシア戦線司令官イワン・チェルニャホフスキーの戦死後、ヴァシレフスキーはその後任となった。間も無く第1沿バルト戦線も彼の指揮下に入り、東プロイセンケーニヒスベルクを奪取した。ドイツ降伏後、戦勝記念観閲式に参加した。

対日参戦

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写真中央(1945年旅順

その後は対日参戦をにらんで、関東軍の撃破計画の立案に従事した。1945年6月末には極東に派遣され、7月にヴァシレフスキーは極東ソ連軍総司令官に任命された。8月8日ソ連が対日宣戦布告をすると、翌9日にソ満国境を越え、関東軍を撃破した。

戦後

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1946年3月に再度参謀総長、1949年3月に軍事人民委員に任命された。1950年~1953年陸軍大臣。

1977年12月5日に死去した。遺骸は赤の広場クレムリンの壁墓所に埋葬された。

 
ヴァシレフスキーをあしらった1980年発行のソ連切手

受勲・家族

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ソ連邦英雄(2度)。勝利勲章2個、レーニン勲章8個、十月革命勲章赤旗勲章6個、一等スヴォーロフ勲章赤星勲章、三等「ソ連軍における祖国への奉仕に対する」勲章を受章した。

家族

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ヴァシレフスキーと妻エカテリーナ (1975)

息子のユーリー(1925年 - 2013年)は退役航空中将である。

外部リンク

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先代
ボリス・シャポシニコフ
アレクセイ・アントーノフ
赤軍参謀総長
1942年5月 - 1945年2月
1946年3月 - 1948年11月
次代
アレクセイ・アントーノフ
セルゲイ・シュテメンコ
先代
ニコライ・ブルガーニン
  ソビエト連邦軍事人民委員
第3代:1949年3月24日 - 1950年2月25日
次代
(1950年2月に陸軍省に改編された。)
先代
-
  ソビエト連邦陸軍大臣
初代:1950年2月25日 - 1953年3月15日
次代
ニコライ・ブルガーニン