ウィリアム・シェリング


ウィキメディアプロジェクトへの貢献者

Article Images

ウィリアム・シェリングWilliam D. "Billy" Sherring1878年9月18日 - 1964年9月5日)は、カナダ陸上競技選手である。彼は、アテネオリンピック1906年[1]の男子マラソン金メダリストとして記録に残っている。

ウィリアム・シェリング Portal:陸上競技

ウィリアム・シェリング

選手情報
フルネーム William D. "Billy" Sherring
愛称 Billy
国籍 カナダの旗 カナダ
種目 マラソン
所属 St. Patrick's Amateur Athletic Club
生年月日 1878年9月18日
生誕地 ハミルトン (オンタリオ州)
没年月日 1964年9月5日(85歳没)
死没地 ハミルトン (オンタリオ州)
身長 166cm
体重 45kg
自己ベスト マラソン:2時間51分23秒6(1906年)

獲得メダル

カナダの旗 カナダ
陸上競技
オリンピック
1906 アテネ マラソン
編集 テンプレートのヘルプを表示する

経歴

編集

シェリングは、1900年代初めの世界的マラソン選手である。1900年ボストンマラソンでは、同郷のジャック・キャフェリーについで2位となった。また、彼はハミルトンでの「ベイロード周回競走」(en:Around the Bay Road Race)に2回勝っている。

彼は1906年のアテネオリンピックのカナダ代表に選ばれたが、資力が乏しかった[2]

シェリングはアテネへの旅費を調達するために、何とか金をかき集めた。彼はなけなしのその金を「Cicely」という名前の競走馬に賭け、幸運にも旅費を得ることができた。

シェリングはオリンピックの7週間前にアテネに到着し、現地の鉄道駅でポーターとして働いた。

本番のマラソン競走では、シェリングは殆ど全てのコースで先頭を走り、2時間51分23秒6のタイムで優勝した[3][4]ギリシャゲオルギオス王子は、最後の50メートルをシェリングに伴走した。

シェリングには、生きた子羊と女神アテナの彫像が褒賞として贈られた。シェリングがカナダに凱旋した後、ハミルトン市は5000ドルの賞金を贈り、トロント市はさらに400ドルを贈った。

この凱旋の後、シェリングは間もなく現役を退き、1942年までハミルトン市の税関で働いた。

彼の死後、「ベイロード周回競走」は、「Billy Sherring Memorial Road Race」と改名された。ハミルトン市はこの名高いアスリートの功績を記念して、「Billy Sherring Park」を造った。

脚注

編集

  1. ^ この大会は、現在のオリンピック史では非公式扱いとされている。詳細については、当該項目を参照のこと。
  2. ^ 当時のシェリングの本業は、カナダのグランド・トランク鉄道(en:Grand Trunk Railway)の車掌助手であった。
  3. ^ この大会でのマラソンの距離は、41.860km(26.01マイル)だった。
  4. ^ Athletics at the 1906 Athina Summer Games:Men's Marathon[リンク切れ]Archived 2020年4月17日, at the Wayback Machine. 2011年9月2日閲覧。(英語)

関連項目

編集

外部リンク

編集

ウィキメディア・コモンズには、ウィリアム・シェリングに関連するカテゴリがあります。