オラニエ=ナッサウ家


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(2016年3月)

オラニエ=ナッサウ家: Huis Oranje-Nassau)は、現在のオランダ王家。元はドイツ西部のライン地方を発祥とする諸侯の家系であるナッサウ家の支流である。ネーデルラント連邦共和国時代には、総督の地位をほとんど独占した。

オランダ王室

国王ウィレム=アレクサンダー
王妃マクシマ



傍系王族


歴史

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オラニエ=ナッサウ家の成立まで

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ナッサウ家のうちナッサウ=ディレンブルク伯オットー1世 (enの家系は、14世紀から15世紀にかけてネーデルラントに勢力を伸ばし、随一の名門となっていた。16世紀初めにはブレダ領主ヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダ (enブルゴーニュ公シャルル(後の神聖ローマ皇帝カール5世)からホラント州ゼーラント州ユトレヒト州総督に任命されている。ヘンドリック3世と弟のナッサウ=ディレンブルク伯ヴィルヘルム (enはそれぞれ、ネーデルラントを含むライン左岸の領地と、ナッサウ家伝来のライン右岸の領地とを相続していた。ヘンドリック3世の息子ルネ・ド・シャロンは父の遺領に加えて、母方の叔父から南フランスオランジュ公領(元来は神聖ローマ帝国に属した)も相続していたが、1544年に戦死した。跡継ぎがいなかったルネの遺言により、ヴィルヘルム1世の長男ウィレムは、従兄ルネの遺したネーデルラントの所領とオランジュ(オランダ語でオラニエ)公領を11歳で相続し、オラニエ公ウィレム1世となった。以後、ウィレム1世の子孫は代々オラニエ公を継承し、その家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれる。ナッサウ=ディレンブルク伯の所領は父ヴィルヘルム1世から次男ヨハン6世に相続された。

オランダ総督からオランダ国王へ

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オラニエ公ウィレム1世八十年戦争において中心的指導者となり、その子孫からも優れた軍事指導者を輩出して、オランダの独立と発展に貢献した。ウィレム1世と兄に協力したナッサウ=ディレンブルク伯ヨハンおよび彼らの子孫は、ネーデルラント連邦共和国各州の議会あるいは連邦議会が任命する総督(統領)職をほとんど世襲し、君主に近い地位を占めた(歴代のオラニエ公は、連邦の7州の中心的存在であるホラント州の他4~5の州の総督を兼ね、残りの州の総督はヨハンの家系が占めた)。

総督・オラニエ公ウィレム3世名誉革命によりイングランドスコットランド王位につくと、1代限りではあったが事実上の同君連合が成立した。ウィレム4世以降は全州の総督を兼ね、その地位を世襲することが公式に認められた。

フランス革命が起こるとオランダにも余波は及び、フランス軍の侵攻を受けて連邦共和国は崩壊し、ウィレム5世は総督の座を追われた。すでにオラニエ=ナッサウ家と共和国の政治体制に対して国民の不満が渦巻いており、フランスの侵攻はオラニエ=ナッサウ家追放の絶好の機会であった。以後ナポレオン1世の没落まで、オランダはフランスの支配を受けた。当初フランスは解放者として受け入れられていたが、ナポレオンがフランス皇帝となると、次第に不満が募って行き、オラニエ=ナッサウ家の復権の機会を与えてしまうこととなった。

ウィーン会議によって南ネーデルラントを併せたオランダ王国ネーデルラント連合王国)が成立すると、かつての総督の子孫は立憲君主国の国王として君臨し、現在に至っている。なお、南ネーデルラントは1830年ベルギー王国として独立した。また、オランダ王はルクセンブルク大公を兼ねていたが、1890年に同君連合を解消し、ルクセンブルク大公はナッサウ家の別系統であるナッサウ=ヴァイルブルク家英語版が継承した。

オラニエ=ナッサウ家当主

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オラニエ(オランジュ)公

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オランダ(ネーデルラント)国王

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没年と在位年数が一致しないのは、譲位し引退出来る制度があるため(終身制ではない)。

系図

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主な姻戚関係、傍系の家系についても併せて示す。

オラニエ公・オランダ王

オラニエ公家 (1)

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フィリベール・ド・シャロン
(1502-1530)
クローディア・ド・シャロンヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダヴィルヘルム
ナッサウ=ディレンブルク伯
ルネ・ド・シャロン
(1530-1544)
ウィレム1世
(1)1544-1584
ヨハン6世
ナッサウ=ディレンブルク伯
アドルフローデウェイクヘンドリック
チャールズ1世
イングランド王
フィリップス・ウィレム
(2)1584-1618
マウリッツ
(3)1618-1625
フレデリック・ヘンドリック
(4)1625-1647
アンナウィレム・ローデウェイク
ナッサウ=ディレンブルク伯
ゲオルク
ナッサウ=ディレンブルク伯
エルンスト・カシミール
ナッサウ=ディーツ伯
ヨハン7世
ナッサウ=ジーゲン伯
ジェームズ2世
イングランド王
メアリー・ヘンリエッタウィレム2世
(5)1647-1650
フリードリヒ・ヴィルヘルム
ブランデンブルク選帝侯
ルイーゼ・ヘンリエッテアルベルティーネ・アグネスウィレム・フレデリック
ナッサウ=ディーツ侯
ヘンドリック・カシミール1世
ナッサウ=ディーツ伯
ヨハン・マウリッツ
ナッサウ=ジーゲン侯
メアリー2世
イングランド女王
ウィレム3世
(イングランド王ウィリアム3世)
(6)1650-1702
フリードリヒ1世
プロイセン王
※相続権を主張
ヘンドリック・カシミール2世
ナッサウ=ディーツ侯
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
プロイセン王
ヨハン・ウィレム・フリーゾ
(7)1702-1711

オラニエ公家 (2)

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フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
プロイセン王
ゾフィー・ドロテアジョージ2世
イギリス王
ヨハン・ウィレム・フリーゾ
(7)1702-1711
フリードリヒ2世
プロイセン王
アウグスト・ヴィルヘルム
プロイセン王子
アンウィレム4世
(8)1711-1751
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世
プロイセン王
ヴィルヘルミーネウィレム5世
(9)1751-1802
カロリーネカール・クリスティアン
ナッサウ=ヴァイルブルク侯
フリードリヒ・ヴィルヘルム3世
プロイセン王
ヴィルヘルミーネウィレム6世
(10)1802-1815
(オランダ王ウィレム1世)
フリードリヒ・ヴィルヘルム
ナッサウ=ヴァイルブルク侯
ヴィルヘルム
ナッサウ公

オランダ王家、ルクセンブルク大公家

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パーヴェル1世
ロシア皇帝
ウィレム1世
(1)1815-1840
ヴィルヘルミーネフリードリヒ・ヴィルヘルム3世
プロイセン王
ヴィルヘルム
ナッサウ公
ヴィルヘルム1世
ヴュルテンベルク王
エカチェリーナ・パヴロヴナアンナ・パヴロヴナウィレム2世
(2)1840-1849
フレデリックルイーゼゲオルク・ヴィクトル
ヴァルデック侯
ヘレーネアドルフ
ルクセンブルク大公(4)
ゾフィーウィレム3世
(3)1849-1890
エンマアレクサンダーヘンドリックルイーゼカール15世
スウェーデン王
オスカル2世
スウェーデン王
ソフィアギヨーム4世
ルクセンブルク大公(5)
ウィレム
オラニエ公
アレクサンダー
オラニエ公
ウィルヘルミナ
(4)1890-1948
ヘンドリックマリー=アデライード
ルクセンブルク大公(6)
ハビエル・デ・ボルボン=パルマフェリックス・ド・ブルボン=パルムシャルロット
ルクセンブルク大公(7)
ベルンハルトユリアナ
(5)1948-1980
ジャン
ルクセンブルク大公(8)
クラウスベアトリクス
(6)1980-2013
イレーネカルロス・ウゴ・デ・ボルボン=パルママルフリートクリスティーナアンリ
ルクセンブルク大公(9)
マクシマウィレム=アレクサンダー
(7)2013-
ヨハン・フリーゾコンスタンティンカルロス・ハビエル・デ・ボルボン=パルマ
カタリナ=アマリア
オラニエ女公
アレクシアアリアーネ

脚注

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参考文献

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この節の加筆が望まれています。 2016年3月

関連項目

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外部リンク

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