八木茂


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曖昧さ回避 この項目では、野球選手の八木茂について説明しています。陸軍大佐の八木茂については「八木茂 (陸軍軍人)」をご覧ください。

八木 茂(やぎ しげる、1953年11月28日 - )は、大阪府出身の元プロ野球選手内野手)、野球指導者である。

八木 茂
鷺宮製作所硬式野球部 ヘッドコーチ #39
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府八尾市
生年月日 1953年11月28日(70歳)
身長
体重
175 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1979年 ドラフト3位
初出場 1980年4月6日
最終出場 1984年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴

監督・コーチ歴

この表について

来歴

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興國高では、1971年夏の甲子園府予選準決勝に進出するが、行沢久隆のいたPL学園高に敗退。

高校卒業後は、1年浪人して1973年早稲田大学へと進学。東京六大学野球リーグでは、1年生から内野手として活躍。エース矢野暢生らを擁し、1973年春季、1974年春季リーグで2度優勝。1974年春季リーグではベストナイン(遊撃手)に選ばれた。また同年の全日本大学野球選手権大会では決勝で駒澤大学を降し優勝。第3回日米大学野球選手権大会日本代表となる。リーグ通算81試合に出場し、261打数76安打・5本塁打・26打点・打率.291を記録。大学同期に松本匡史吉沢俊幸が、1学年下に山倉和博、3学年下には岡田彰布らがいた。

大学卒業後は、社会人野球東芝に入社し、1977年から3年連続都市対抗に出場、主に三塁手として起用される。1978年都市対抗では黒紙義弘大田垣耕造ら投手陣の好投で決勝に進み、日本鋼管木田勇を打ち崩し4-0と完封勝利、チーム初優勝を果たす[1]。この時のチームメートには武智勇治高代延博菊地恭一らがいた。

1979年のプロ野球ドラフト会議阪急ブレーブスから3位指名を受け入団。

1年目から92試合に出場、うち40試合に二塁手、三塁手、遊撃手として先発した。しかしその後は打撃面で伸び悩み、1983年オフに金銭トレードで阪神タイガースに移籍。移籍後の1984年には主に二塁手や代打として起用され、60試合に出場するものの、同年シーズン終了後に現役を引退した。

引退後は東芝テックに勤務する傍ら、目黒西シニアの監督や大正大学の監督、早稲田大学野球部のコーチを歴任した[2]。2014年1月に高校野球指導者に認定され、2014年3月より秋田・明桜高校の監督を務めた[3][4]。その後は鷺宮製作所ヘッドコーチを務める。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1980 阪急 92 156 138 12 30 6 0 2 42 12 4 1 5 1 10 0 2 20 1 .217 .278 .304 .582
1981 36 30 29 4 6 1 0 0 7 1 0 1 1 0 0 0 0 8 0 .207 .207 .241 .448
1982 19 62 53 8 12 0 0 1 15 8 1 0 2 1 6 0 0 6 2 .226 .300 .283 .583
1983 33 46 40 7 8 1 0 0 9 5 0 0 2 0 3 0 1 9 2 .200 .273 .225 .498
1984 阪神 60 78 75 5 14 2 0 1 19 7 2 0 0 0 3 0 0 12 4 .187 .218 .253 .471
通算:5年 240 372 335 36 70 10 0 4 92 33 7 2 10 2 22 0 3 55 9 .209 .262 .275 .537

記録

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背番号

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  • 2 (1980年 - 1983年)
  • 39 (1984、2018年)

脚注

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  1. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ 早稲田大学野球部 部長、監督、コーチ紹介”. 早稲田大学野球部. 2013年8月21日閲覧。
  3. ^ “元阪神八木氏 明桜高野球部監督に就任”. デイリースポーツ. (2014年3月5日)
  4. ^ 【スポーツ随想】高校野球監督資格、見直す必要あり プロがアマを圧迫する可能性 - ZAKZAK

関連項目

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外部リンク

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