大沢悠里


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第二次世界大戦の最中に浅草で出生すると、4歳の頃まで浅草で暮らした。当時からラジオ番組を聴いていた影響で、ラジオから流れる「東部軍管区情報」(大本営発表)を真似ながら実家の近所を触れ回っていたことから、「大本営」との異名を取ったという[34][35]東京大空襲の直前に千葉県市川市疎開した後に、第二次世界大戦の終焉を機に浅草での生活を再開。小学生時代は国語が得意で、筆箱をマイクに見立てながら、『話の泉』『三つの歌』『民謡をたずねて』(いずれも当時NHKで放送されていたラジオ番組)に出演するアナウンサー(高橋圭三宮田輝など)の声真似を同級生に披露していた[35]

「番組で喋るのも、番組を作るのも、自分で番組を作って自分で出るのも好き」とのことで、獨協高校への在学中には、放送部で朗読劇などの制作も手掛けていた。TBSへ入社した直後にも、『朝のひととき』(毎日早朝の5時台にラジオで30分間放送されていた音楽番組)で、週に1日パーソナリティを務めながらミキサーやディレクターの業務を1人だけで担当[36]。その後は、アナウンス部と制作部の双方に一時所属していた関係で、自分が出演しない番組も数多く企画していた[37][38]

獨協高校から早稲田大学へ進学した目的は、学内の放送研究会で活動することにあった。放送研究会では、露木茂鈴木史朗といった先輩の下で、ジャズバンドハワイアンバンドが演奏するイベントの司会を数多く経験。関東以外の地方でのイベントにも同行していたため、司会者の立場で受け取ったギャランティーだけで、早稲田大学の学費を賄えたという。ちなみに、就職活動に際しては「(当時)募集が最も早かった」というTBSのアナウンサー試験しか受けていない[39]

本人曰く「声が地味」で、新人の頃は「宴会などでは面白いのに、放送は面白くない」とよく言われたという[40]。法律相談の番組や小唄の番組などに回され[41]1968年には番組宣伝部に回されそうになったこともあった[37]。その後にラジオ番組『トヨタ・ミュージック・パトロール』のパーソナリティのオーディションに合格して同番組を担当し「初めて自分のペースで話せる番組を持てた」と思ったという[42]

大沢が勤務していた時期のTBSはラジオ・テレビ兼営局で、定年退職後の2001年4月1日からTBSテレビ・TBSラジオによる分社体制へ移行したが、本人は在職中から「テレビは嫌い」と公言。その一方でラジオ番組への愛情やこだわりは強く、「クリーニング店がBGMとして流したり、鼻歌交じりに聴いたりする『友達』のようなものなので、(番組のパーソナリティを任されるからには)どこから聴き始めても気にならない存在じゃないといけない」とも語っている [43]

テレビでは生涯唯一の冠番組に当たる『ゆうYOUサンデー』は、毎週日曜日の午後12時から55分間にわたって全国ネット向けに放送されていたが、ラジオパーソナリティとしての人気とは裏腹にわずか半年で終了。終了後は、『アッコ・古舘のゆうYOUサンデー』を経て、『アッコにおまかせ!』が35年以上にわたって放送されている。本人曰く、「『ゆうYOUサンデー』はワイドショーの走りのような生放送番組で、コーナーの時間帯が完全に構成されていたので、他人から強制されながら原稿を読むことが嫌いな自分の性に合わなかった」とのこと[44]で、「アナウンサー人生の汚点」とまで述べている。

『ゆうYOUサンデー』終了翌年の1986年(昭和61年)には、TBSのアナウンサーでありながら、テレビ朝日9月14日に放送の『題名のない音楽会』にゲスト出演。番組の関係者が(当時ラジオとテレビの兼営局であった)TBSの現職アナウンサーにもかかわらずテレビ番組にほとんど登場しない大沢の面白さをラジオ番組で知ったことによるもので、出演に際してはラジオ番組風の演出が為された。民放局の正社員であるアナウンサーが他局の番組に出演することも、ラジオ風の番組をテレビで放送することも異例であったが、本人は自分の顔が視聴者に知られることで生じるデメリットを『ゆうYOUサンデー』の担当期間中から痛感。「テレビに出ると顔は有名になるけど、街を歩くだけで(周囲の人々に顔を)振り返られても、チンパンジーと同じような(珍しさによる)ものでしかない。振り返られたところで(アナウンサーとして)尊敬されているわけではないので、勘違いするな」という戒めの言葉を、部下のアナウンサーへ頻繁に投げ掛けていたという[44]。フリーアナウンサーに転身してからも、「顔を出してまでテレビ番組へ出演しない」という方針を貫いている[34]が、雑誌では2015年4月10日発売の『クロワッサン[45]、書籍では『開局70周年 TBSラジオ公式読本』(2021年リトルモアから刊行)などに「顔出し」を伴うインタビューへ応じた模様が掲載されているほか[46]、それ以前から書籍・雑誌や出演番組の公式サイトなどでは顔写真を公開している。

TBSラジオでは、放送中に同局のコールサインである“JOKR”をコールすることが(放送開始・終了時を除いて)ほとんどないが、大沢は『ゆうゆうワイド』の番組内の時報の直前に「まもなく時報になります。ちょっとお手元の時計、合っているかどうか御確かめ下さい。TBSラジオです。J・O・K・R」と、唯一コールサインを読み上げる(尺により言わない時もあるが)ことで知られる。大沢はTBS社員を経て現在はフリーであり、放送局に属さない出演者がコールサインを読み上げることも異例であるといえる。また、このときにTBSラジオの周波数や出力の案内もすることがある[47]

『ゆうゆうワイド』では高齢者に対する配慮から、問い合わせ先の電話番号などを読み上げるときは、とてもゆっくり、2度3度と繰り返す。また、高齢者には難しく思われそうな英単語なども、放送では極力使用を避けている[42]。いずれも「自分のポリシー」によるとのこと[48]だが、「本当のスケベ話(『お色気大賞』でのトークなど)は、(根が)真面目だからこそ出来る」との考えも持ち合わせている[42]

『ゆうゆうワイド』などでの共演者やリスナーからは「悠里さん」、番組やラジオCMでたびたび共演している毒蝮三太夫からは「悠里ちゃん[34]と呼ばれている。『ゆうゆうワイド』シリーズで長年にわたって大沢のアシスタントを務めているさこみちよは、大沢について「心のどこかで師匠のようだと思ってるかもしれない」とのことで、公の場で「大沢さん」と呼んでいる[49]。その一方で、「喋り声は極めてハト派だが、顔は思いっきりタカ派の大沢悠里」と言われている[34]ほか、『ゆうゆうワイド』の裏番組に当たるラジオの生ワイド番組で長らくパーソナリティを務めていた高田文夫から「下駄にモミアゲ」という表現で風貌を揶揄されたことがある[50]

TBSラジオで1986年4月からレギュラーで放送されてきた『ゆうゆうワイド』を、平日版のスタートから36年目(2022年3月末)[注釈 2]で終了させることを決めたのは、「今後いつ調子(体調)が悪くなるかも分からないので、(自分と同じ年代の高齢者が自動車を運転することへの不安や限界などから)運転免許証を(所轄の都道府県公安委員会へ自主的に)返納するように、(リスナーやスタッフの)皆さんから心配されないうちにマイクをTBSに返納したい」という自身の意向による。2022年1月8日に土曜日版で終了を初めて発表した際には、「月 - 金曜日に『ゆうゆうワイド』で4時間半(の生放送への出演)を30年続けた節目で(ラジオパーソナリティを)辞めようとしたら、(平日版のリスナーなどから)『ぜひ、また、ちょっとでもいいから(続けて欲しい)』という(要望が相次いだ)ので、土曜日の午後に(週1回のペースで生放送の)パーソナリティを務めることになった。(このような経緯で)土曜日版を始めてから(2022年の)3月で丸6年、(TBSへ入社してからの)アナウンサー生活が58年になる。もっとも、内心では『(ラジオパーソナリティとしての)賞味期限がそろそろ切れ始めている』と感じていて、(パーソナリティとしての)自分に引導を渡すことを1年前(2021年)からずっと考えていた。お世辞でも『まだ(パーソナリティを)できるじゃないか』と言われているうちに(パーソナリティを)辞めた方が良いとの結論に至ったので、その旨をTBSラジオに伝えたところ(『ゆうゆうワイド』シリーズ終了の)了解を得られた」と述べている[21]。さらに、同日の放送終了後に『スポーツニッポン』から電話で取材を受けた際に、「フェードアウト」(土曜日版の終了に伴うアナウンスやナレーションの第一線からの勇退)の意向があることを表明。東京でオリンピックが最初に開かれた1964年にTBSへ入社したことを背景に、2020東京オリンピックの開催をもってアナウンサー生活に終止符を打つことを開催決定の時点(2013年9月)で決めていたことや、(新型コロナウイルス感染症流行の影響による1年延期を経ての開催を控えていた)2021年4月の時点で『ゆうゆうワイド』シリーズの終了をTBSラジオに申し入れていたことも明かした[51]

電気熱燗器をフロアに持ち込み、ブレーカーを落としてしまったことがある。TBSラジオの電波が初めて止まる危機で「社史にも載っていない黒歴史」と、安住紳一郎アナウンサーが2022年8月25日の「THE TIME,」で語っていた[52]

実家のあった浅草の寄席に幼い頃から通うほど江戸落語への造詣が深く、早稲田大学への在学中には、文化放送のアルバイトスタッフとして演芸番組の制作にも携わっていた。寄席での披露すらも憚られる艶笑噺にも触れてきたことや、落語家を一時志していたことなどから、いわゆる「笑芸」に対しては一家言を持っている[42]

TBSの若手アナウンサー時代に担当した『ヤング720』で、当時同局で制作していた『ウルトラマン』の撮影現場を取材した際に、怪獣の着ぐるみに入りながら古谷敏演じるウルトラマンとの立ち回り撮影に臨んだ。「普通のインタビューじゃつまらない」という自身の提案によるものだが、身体は汗、顔は涙にまみれていて、「撮影後に怪獣の頭を脱ぐと、湯気を思わせるような熱気が立ち上る」という有様だった。実際の撮影時間はわずか5分ながら、取材者が着ぐるみに入ることが初めてであったため、古谷は大沢に対して旺盛なチャレンジ精神と熱意を感じたという[53]

東京・西新宿の喫茶店「喫茶らんぷ」の女性店主はいとこにあたる。また、大沢の兄はこの店で長年「らんぷ寄席」を開催。さこみちよや立川ぜん馬なども出演していた[54]

TBS在籍中の40代中盤まではフリーアナウンサーへの転身を考えていなかったが、45歳で『ゆうゆうワイド』のパーソナリティを始めたことを機に、アルバイト(TBSが関与していないイベントでの講演・司会やCMへの出演など)の依頼が殺到。このような依頼を捌く目的で、TBSに在籍しながら「大沢企画」を立ち上げた。当時のTBSは、社員が社外で会社を設立することを認める一方で、設立した会社の社長に就くことを内規で禁じていた。そこで大沢は、妻を大沢企画の社長に立てたうえで、「大沢企画の平社員」としてアルバイトを同社経由で次々と引き受けていた。40代の後半にはTBSで管理職(アナウンス部の専門職部長)に就いていたが、当時の同部では自身と生島ヒロシのアルバイト件数が群を抜いて多かったため、上記の実態を関知していない人事部から「アナウンス部員のアルバイトが目に付くので(部長の立場で)注意して欲しい」と呼び出されたことも退社へのきっかけになったという[55]。もっとも、TBSのアナウンサー時代から担当番組のほとんどが関東ローカルで放送されていたため、退社後には自身について「全国的な知名度があまり高くない」と評している[56]

大沢企画を立ち上げてからは、自分が出演する番組のスポンサーを探すための営業活動も展開。スポンサーに付いてくれそうな企業・団体・商店の関係者を、プライベートで通っている居酒屋の客から探すことも珍しくなかったという。ちなみに、生島は大沢より早く1989年3月で退社した後に生島企画室を立ち上げていたが、「民放局ではスポンサーがいないと番組が終わってしまうから、どうせならスポンサーも自分(出演者自身)で確保すれば良い。ラジオ番組には喋り手(パーソナリティ)に対する(リスナーやスポンサーからの)シンパシーが強いから、(喋り手が)自分で(スポンサーを)回ったら確保しやすい」という大沢のアドバイス[57]に沿って広告代理業にも参入。その結果、生島企画室は一時、TBSラジオにおける代理店収入で電通博報堂に次ぐ3位の座にあった[58]

TBSを50歳で退社してから脳梗塞を患ったことについては、療養生活を経てフリーアナウンサーとしての活動を再開した後に、「退社によって固定給がなくなったので、『とにかく稼がなければならない』との一心で、週末ばかりか(当時平日に放送されていた)『ゆうゆうワイド』の本番終了後にまで出向くほど講演の依頼を引き受け過ぎた結果」と告白。「さまざまな人々の顔を見ながら話をして、そこで聞いた話をまたラジオ(『ゆうゆうワイド』)ですると、その場で会った皆さんが喜んで聴いてくれるばかりか、次に(講演で)来る機会を待ってくれるようになる。その意味では、忙しいながらもとても楽しかった」とも述懐している[59]。ちなみに、脳梗塞の発症によって3週間の入院加療を余儀なくされたことから、復帰後のラジオ番組では「病気療養中の方もお付き合い下さい」との一言を添えるようになったという[60]

茶碗一杯分のせんぶり(苦みが強いことで知られる漢方薬)を煎じて飲むことを日課にしている。『スポーツニッポン』のインタビューで「毎日欠かさずしていること」を訊かれた際にも、この日課について語っていたが、実際に掲載された記事では「茶碗一杯のとんぶり」と誤記されていた[61]

『ゆうゆうワイド土曜日版』の終了を機にラジオ番組のパーソナリティを退いた後も、ポッドキャスト向けの音声コンテンツ(『大沢悠里と毒蝮三太夫のGG放談』)で「語り手」を1年間務めたが、ポッドキャストについては『GG放談』の配信開始が発表された時点で「自分では(仕組みが)よく分からない」と述べていた[62]。毒蝮は大澤と同じ年代(1936年出生)で、TBS→TBSラジオでは、『ゆうゆうワイド』を平日に放送していた期間中に『ミュージックプレゼント』(自身が1969年10月6日からパーソナリティを務める公開生放送番組)を1コーナー扱いで内包していた。