庚午 (広島市)
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Article Images庚午(こうご)は、広島市西区の地名。ここでは名称に「庚午」を冠する各町(庚午北・庚午中・庚午南)について取り扱う。庚午北、庚午中はそれぞれ一丁目から四丁目まで、庚午南は一丁目から二丁目まである。当地域の人口は19,736人[1]。旧町名は「庚午町」( - ちょう)。
庚午 | |
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北緯34度22分58.34秒 東経132度24分50.09秒 / 北緯34.3828722度 東経132.4139139度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 広島県 |
市町村 | 広島市 |
区 | 西区 |
人口 平成25年7月末現在 | |
• 合計 | 49,351人 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
733-0821・733-0822・733-0823 |
市外局番 | 082 |
ナンバープレート | 広島 |
※座標は庚午三叉路付近 |
地理
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歴史
1869年(明治2年)広島では凶作により多数の困窮者が発生し、その救済のため広島藩は大規模な干潟干拓工事を行った。1870年(明治3年)現在の庚午地区に整備された干拓地は、この年の干支「庚午(かのえうま、こうご)」にちなみ「庚午新開(こうごしんがい)」と命名された。
隣接する草津地区が古くからの漁村であることと対照的に、庚午地区ではサツマイモ、大根などの野菜の栽培に力を入れた。戦後の困窮期には学校の校庭でもサツマイモが盛んに作られ、広島市立庚午中学校は地元民から「イモ中」と呼ばれた。
その後、食糧事情の安定と共に農業は商工業に推移していき、現在では新興の住宅や店舗が立ち並ぶ近代的な町並みに発展し、人口は近年も増加傾向にある。
- 1869年:現在の庚午地区一帯の干潟干拓工事着工。
- 1870年:干拓工事竣工。整備された土地は「庚午新開」と命名。
- 1889年:町村制施行により草津村が設置。「佐伯郡草津村大字庚午新開」。
- 1909年:草津村が町制施行され草津町に。「佐伯郡草津町大字庚午新開」
- 1929年:草津町が広島市に編入合併。「広島市草津町大字庚午新開」。
- 1933年:草津町大字を「草津東」「草津本町」「草津南町」「草津浜町」「庚午町」に再編。
- 1967年:庚午町を「庚午中」「庚午南」「庚午北」に再編。
- 1980年:広島市の政令指定都市移行の際「広島市西区」に編入され、現在の地名「広島市西区庚午中1丁目 - 4丁目、庚午南1丁目・2丁目、庚午北1丁目 - 4丁目」となる。
交通
バス
広島バス25号線(草津線)が国道2号線を通過する。 広島バス50号線(東西線)[国道2号線-広島市道霞庚午線]も通過する。
鉄道
施設
教育施設
宗教施設
- 庚午神社
スポーツ施設
- 広島市西区スポーツセンター
- 草津公園野球場
脚注
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関連項目
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