朴璐美


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人見知りで、不器用なため嘘を吐いて話すこともできない[29]

趣味や特技はスキューバダイビング少林寺拳法ピアノ水泳韓国語[21]

最初のイベントで、客に椅子の背もたれを向けて座ってしまったことから初めはヒドかった[29]。以前、イベントで「今度の役どころは?」と質問されたが、まだ収録すらしていない役であったため、監督のカンペを見て「巨乳です」しか言えず一杯いっぱいで震えていた[29]。会場の皆は「頑張れ!」と温かく応援してくれたが、痛々しい姿であったと語る[29]。その後、あるイベントで地方を回った時、何回目かの名古屋で、一緒に出演していた子安武人にようやく突っ込みを入れることができ慣れてきた[29]。普段は冗談を飛ばし合っているが、イベントのステージに立つと、しゅんとしてしまう[29]

ラジオ番組などは小野坂昌也にゲストに来てくれた時、「一生懸命に楽しく盛り上げて、ゆくゆくはラジオのパーソナリティになりたいとか思わないの?」質問に「思いません」と言ったりしていた[29]。ラジオ番組『鋼の錬金術師』では、相手役の釘宮理恵と2人でラジオをしなくてはいけなくなり、それでも話せなかった[29]。しかし相手役の釘宮の負担を減らすためにも「とにかく私が引っ張っていかないと」と思ってからは、逆切れしてやり出した感じであった[29]

歌は全て逆切れで解決で、朴は逆切れする才能は持っているかもしれず皆それを克服するために練習したり色々するが、朴はダメであった[29]

2009年時点でレギュラーを多数抱え、大人気だが、これだけの仕事を依頼されている理由は「不思議だなぁ」と感じている[29]。自分自身のためにしているところもあり、飽きっぽいところも出てしまっていると思っており、恥も外聞も捨ててしている[29][30]。そんな暑苦しさに何かしらの魅力を感じてくれる人物がいるおかげで、「シラケていたくないな、シラケていちゃいけないのではないかな」と思っている人物たちがファンになってくれているといい、すごく愛しい[30]

尊敬する声優は『シャーマンキング』で共演した高山みなみ林原めぐみ[31]。2人は恩人であり、慣れない少年役で悩んでいたとき、この仕事は一人でやっているわけではなくみんなで作っているんだと教えられ、学生時代に好きだったみんなで作る感覚を思い出させてくれた高山を父、林原を母であると公言している[31][32]。声優の川上とも子は桐朋学園短大時代の同期生であり、川上が2011年6月に亡くなった際には、自らのブログで彼女への思いを語り、通夜に駆け付けた[33]

養成所に特別講師、体験レッスンの講師として呼んでくれることはある[30][34]。めちゃめちゃスパルタで「なめてんなよ」ぐらいの勢いで、身体を使わせ、基本は、円演劇研究所の教わった[30]

2010年から2012年までダイニングカフェ・シーラカンスをゲッターズ飯田と共同経営していた[35]

2013年からボイススクールstudio Cambria(スタジオ カンブリア)を開校[36]。最初に話をくれた時は「役者が誰かにものを教えるなんて冗談じゃない」気持ちがあり、「最近のしらけている子たちに私が接したら、きっとケンカになりますよ」と断ろうとしていた[34]。その時に話をくれた人物が「そのくらい本気でぶつかってください。学生を泣かせてもいいです」とまで言うため、引き受けた[34]。最初の頃のレッスンは、かなりケンカ腰だったといい、その時学生にやらせたのが、演劇集団 円の演出家の福沢富夫がしていたレッスンであった[34]

特色

舞台でも声優でも、老若男女幅広い役を演じている[37]

アニメではティーンエイジの少年役に起用されることが多い[37]

吹き替えでは下記ハリウッドスターなどを多く担当している。

ナレーションでは『金曜ロードSHOW!』でサッシャのパートナーとしてナレーターを担当している。

これまで様々な作品で少年役を演じていたが、少年役であっても大人の女性役であっても、役に対するスタンスは変わらず、「演じるからにはとにかく役と一緒になりたい、自分のすべてを出し切りたい」と語る[40]

もし違いがあるとしたら、「少年役は心が隠せないこと」で、少年は気持ち、思いが前面に出てくる気がする[40]

男の子役を演じる時の発声を変える考えが嫌いで、「どう男の子役をやるか」葛藤した[41]

∀ガンダム』から続き、『鋼の錬金術師』のエドワード・エルリック役で、自分の中で納得がいくようになった[41]

デジモンアドベンチャー02』の一乗寺賢役を演じていた時は、少し変わった役であったが、怒りの部分を増幅させ、「もしそこで男の子じゃないと言われたら、それはもうそれでいいや」と思った[41]

『∀ガンダム』のロラン・セアック役で初めて少年役を演じ、『デジモンアドベンチャー02』の一乗寺賢役、『シャーマンキング』の道蓮役、『ドラゴンドライブ』の大空レイジ役と、様々なタイプの少年役を演じてくれたことにより[40]、『鋼の錬金術師』のエドワード・エルリック役はそれまでの集大成であり、運命的なものを感じた。エドの役は感情の振れ幅が大きかったため、他の役では感情を出し過ぎたことが多々あったり、エドのような演技を求められても、違うキャラクターだからできないとギャップに戸惑った時期もあった[42]

朗読劇『電車男』、舞台『レインマン』と、2009年時点では声だけではなく舞台出演も平行しているが、体はいつも泣き言ばかりで朴自身「よく維持できてるな」と思っている[30]。仕事を引き受けてしまった以上はやるしかなくその前に「考えろ」だが、朴は先が読めないタイプである[30]

『電車男』では初めて舞台上で男の子役を演じており、その時は朗読劇と聞いていたが、朗読劇のアクションステージであった[30]。本番では、スクリーンは壊れ、りんごで頭を打ち、稽古期間の短さ、台詞の多さから考えると、まさしくあの舞台は逆切れの賜物である[30]

声優を初めた当初は少年役で苦しんだが、途中からは「男の子も何もないな」と思った[30]。『NANA』の大崎ナナ役もそうだが、「その役を自分の中に入れれば問題はないな」と『NANA』の大崎ナナ役も同じ感覚で演じている[30]

声優・女優になるまで

生い立ち

在日韓国人として生まれ、後に日本に帰化した韓国系日本人[18][43]

姉と弟がいる[43]

子供のころは体が弱く、肺炎で死にかけたり、食事もあまり摂らないにもかかわらず、活発に動いて突然倒れることもあった[43]

小学生の頃はのあだ名は「半切りごぼう」[注 2]

体を鍛えることと箱入り娘に育てるため、少林寺拳法水泳ピアノ書道公文そろばん油絵など習い事をいくつもした[43]。韓国の李氏朝鮮時代からある儒教のしきたりで毎週日曜日に祖父母の家を訪ね、学校では日本語、家では日本語と韓国語、祖父母宅では韓国語で過ごす一日で世界が変わる生活は現実感がなく、特に祖父母の家に行くことは鬱陶しく感じていた[43]。家ではだらしないとして流行のファッションをしていると怒られ、父とは20歳になるまで敬語で会話していた[43]。父は単身赴任が多く家にあまりいなかった[44]。母は、日本語を知らぬまま来日していたが、凄く努力して新聞などを独学で日本語を学んでいたようで、日常会話は日本語であった[43][44]。母は朴を在日韓国人学校、朝鮮人学校に入れるつもりも全くなかったようであったことから朴に韓国語を強要したことは一度もなかった[44]。母は、朴をアルバイトもさせてくれなかったことから馬鹿かわいがりしていた[44]。後述の彼氏が出来た時には彼を「どういうつもりなんですか?」と呼び出していたことから大変であった[44]。その時に「真剣にお付き合いしているのだったら私のいる前でしか会わないで」、と言っていた[44]。中学は地元の公立校では不良になるとの心配から、母の意向で私立校に通い[43]、高校は自分の居場所を求めて韓国の学校へ進学することを希望するも許されなかった[45]。姉は、日本になじめずに、韓国に行っていた時期もあり[46]、中学進学時にも「韓国に行きたい」と言っていた[47]

デビュー前

元々、演劇に興味を持っていたわけではなく、高校で演劇部に憧れの先輩がいたこと[45]、先輩に誘われたことがきっかけ[46][48]。両親からは「高校生になったら部活動してもいい」と許しが出たため、先輩の言葉に乗り、演劇部に入部[46]。演劇部に入ると、みんなで作品を作り上げることが好きになり芝居にのめり込む[48][46]。当時は学校の演劇部としての活動は、ほどほどだったが、地区大会のようなものには出場していた[46]。顧問の教師からもあまり干渉はされず、自由奔放に活動した[46]。演劇部の1年目は役をもらえるわけではないため、一番最初は照明を担当していた[49]。当時は部活動だったが、芝居の演出も生徒が色々な役割分担をそれぞれに受け持つかたちで運営していたことから、演出に興味があった[46][48]

脚本は色々で、当時は人気のあった野田秀樹の作品などを上演していた[46]。野田作品の舞台は観たことは一度もなかったが、勝手に自分なりの解釈で舞台を演出していた[46]。短大生になり初めて夢の遊眠社で野田の演出の舞台を観て、「オリジナルはこうなっていたんだ」と感激していた[46]

高校3年の時に出場した全国高等学校演劇大会の地区大会で、ミヒャエル・エンデの『モモ』の登場人物を全員女性に改稿して演じていたが、本番で演じている最中に停電になってしまい、上演は中止になった[48]。当時は灰色の女役でちょうど舞台に立っていた時に真っ暗になったため、「これだけ稽古してきたのに、もう演じられないのか」とものすごくショックを受けてしまった[48]。朴以外の部員も皆、号泣したりパニックを起こしたりとおかしなテンションになっていた[48]

電源が復旧しもう一度最初から演じられることになった時には、冷静になってしまい、灰色の女にしか見えなくなっていた[48]。今まで感じたことのないすごく変な感覚だったが、それを味わってしまったところ演劇のとりこになっていた[48]。このことを、「やはり、どこかで苦しかったのかな」と語っている[46]

日常を生きていく上で、現実感がなく、日本の社会に入り、溶け込もうとしても上手くいかず、何かしらで必ず自分の中に違和感を感じた[46]。それが演劇の中でやっと一つになれる実感があった[46]。当時「自分はもしかしたら精神を病んでしまっているのではないか」と思い、母に病院に連れていってもらったこともあった[46]。その病院の医師が、重度の患者に会わせてくれて、「君は病気じゃないよ」と言った[46]

今まで何に対しても興味が持てなかったが、初めて集中して興味を持てたのが演劇だった[49]。他の表現方法で興味が持てなかったのは、絵は面倒くさく、気にし出すと凝り性な部分があるため、絵の具も全種欲しくなり、全部が手に入らないと悲しかった[49]

舞台などはほとんど観ておらず、基本的に不器用で一点集中型だった[46]。2009年時点でも一つに集中すると他のことを一切しなくなってしまう傾向がある[46]

大学は今度こそ韓国の学校に行こうとするも、当時の韓国は学生運動が盛んで危険だったこともあり、母から日本での受験を勧められる[50]。その時は進路を決める時期で、中学高校と女子校だったため、「もう女子だけの環境はイヤ!」と思い、エスカレーター式の女子大に進学したくなかったが、両親は大学進学希望だった[48]。母は朴がそのままエスカレーター式で大学に進学してくれると思い込んでいたようだった[49]。朴は、芝居の他にも、ビーズなどで小さくて細かいものを延々と作っていることが好きだったため、「アクセサリーなどを作る人になりたい」と思い、専門学校の資料を取り寄せたりしていた[49]。しかし両親が「大学進学以外は絶対に認めない、大学に進学しないなんて朴家の恥だ」と言われた[47]。何が何でも大学への進学は嫌で、他の選択肢を考えていなかったため、困っていた[47]。「何とかしよう」と思い、両親に「姉のように韓国へ行かせてくれないか」と頼んでいた[47]。その時、「頼むから日本の大学に行ってくれ、今いる上の大学が嫌ならどこでもいいから受験してくれ」と懇願された[47]。演劇に比重を置いていたせいで受験準備もしていなかったことから、友人から聞いた試験科目が国語と実技だけだった桐朋学園芸術短期大学演劇科を受験する[47][50]。最終的には偶々演劇の大学に行ったが、もしアクセサリー関係の大学を知っており、両親が許してくれていたら、「今頃は立派なアクセサリーデザイナーになっていた」と語る[47]

大学入学後にできた1浪して入学して年齢的には1つ上であった彼氏が立ち上げた劇団に参加[48][47][51]。彼の演出は演者を扱うことが上手く熱い人物で朴がとある少女役を稽古していた時、「あのさ、形はよく分かったからもういいよ。お前が全く見えてこないんだよ」と言い、電気を消されて、「足りねぇ!」、「跳ねろ!」、「走れ!」と怒鳴られまくっていた[51]。無我夢中で跳んだり跳ねたり走ったり暗闇の中、何も見えないところで、ただ真剣に身体を動かしていたところ自然と心も動き自分に集中できるようになった[51]。そのうちに、朴自身も気付いてなかったものがどろどろっと出てきた[51]。朴は演出家希望だったが、彼の演出家としての才能に圧倒されたことから演出することを断念した[51]。当時の朴は、周囲のことなどどうでもよく、人からどう見られているかなど気にもならなかった[44]。それまでどこか箱入り娘であったが、かき乱れ、朴自身の殻をいっぺんに壊された感じで彼のことを心の底から尊敬しており好きであった[44]。彼は大変人気者で、多くの同級生が彼のことを気にしていたと語り、モテモテであった[44]。朴と彼が付き合うことになった時には、皆から冷たい仕打ちを受けていたが、朴は舞い上がっていたため、気にならなかった[44]。学内劇団ではたったの3回であったが、2009年時点でも、この学内劇団の3回の公演は忘れることはできず、はっきり記憶に残っていた[51]。人数は20人程度で彼自身も大きなことを言っておきながら、弱い部分があり、学校に来なかったり、稽古にも来なかったりもして3回公演する間に分裂したり、色々あった[51][44]。その核として活動していたのが、彼と朴と2009年時点で演劇集団 円で一緒に活動している友人の3人であった[44]

2年の後期になった時に先生から呼び出され、「このままでは卒業できない」と伝えられていた[47][51]。それを知った母は「卒業できないなんて朴家の恥!」と大学の先生に直訴しに行き、なんとか卒業できるように手立てを考えた[51]。朴自身は、もうどうでもよくはなっていたが、後期になりある授業に出席した時、前期に全く出席していなかったこともあり、その教授に「何で君がここにいるんだ。帰りなさい!」と言われた[51]。その言葉にカッチーンときて、「この授業に出なくたって絶対卒業してやるよ!!」と強く思い、逆ギレしてなんとか卒業しようと一念発起して、2年の後期だけは無茶苦茶頑張った[51]。出席しなかったのは一般教養、演劇論のような座学で、何を言っているのかさっぱり理解できなかった[51]

大学入学後も役者になろうとは思わず、卒業後に日本で付いてまわった違和感を「はっきりさせたい」と思い、遂に韓国留学[44][50]。韓国へ行き「私の帰るべき場所ではなかった」と思った[44]。落ち着ける場所と考えていた「母国」の地は「祖国」であり、「やはり、母国は私にとって日本なんだ」と確信していた[44][50]。いくつかの発見もあったが、日本で得た内なるものと韓国での擦れ違いから韓国には1年間の留学予定であったが、「ここは私のいるべき場所ではない」と思い見切りをつけて、結局半年で勝手に失意のうちに帰国[44][50][52]

内緒で帰国してしまったため、実家に帰ることもできず、短期大学の先生のところに泣きながら駆け込んでしまった[44]。3日後には実家にタクシーで連れていかれ、その時が人生の中で自分が抱えてきたものを吐き出さなければならない重要な通過点だったのだと語る[44]。彼氏が友人とデキちゃっており、ショックのあまり引きこもりのような状態でもあった[48]。失意の日々を過ごしていた時、大学時代の劇団仲間から勧められて、そこで演出家の福沢富夫に出会い、「この人にならすべてを見せられる」と思ったことがきっかけで円演劇研究所に入った[48][52][53]

同演劇研究所入所時には「魔の3日間演習」と呼ばれる行事があり、当初は「もしかして危ない集団に入っちゃった?」と思った[9]。朴たちを見守る福沢の目は真剣そのものであり、それで叫び続けていたところ、演習が終えた時には「もっと先生に私を見てほしい。受け止めてほしい」気持ちになっていた[9]。1年ほど頑張ってみたところ、色々と痛くて苦しくて哀しくてどうしようもなかった気持ちが、想いを吐き出すことでどんどん浄化されていき、「やっと人間に戻れたかな」という感覚で、吐き出すだけではなく「それを表現に変えたい」欲求につながった[9]。学生の時は、世間を分かっておらず、何も分からない中で、必死に自分を出そうとしていた[53]。その時に、「違うよ璐美。そのボタンはここにあるじゃん」とポンと押されて、自分で「こんなボタンがここにあったんだ」と確認が取れた感じでそれまでものがどろっと出てきた[53]。その後、色々な経験をして色々な傷をもらい、円の研究所では、そんな経験、今までの自分の中に潜在的に持っていたものと、それに付随していたものが全部つながって出てしまう感じであった[53]。演じる道で生きて行こうと思ったのはなく演じることは、朴自身が人として生きて行くうえで必要な手段で「絶対に一生失くせないものだ」とも思っておらず「今、必要だ」と思ってるだけであった[53]。「もうお芝居やめてもいいな」と思えた時が来たら、「それは自分を許せる時なのかもしれないな」、「私が浄化される時なのかな」と思っている[53]

デビュー後

当時、演劇集団 円の会員になったのも、前述の自然な流れからであり、演劇集団 円に入団後も自分が役者として生きていくことに疑問符だらけであった[9]。演技でお金を受け取ることがピンとこなく、朴にとって、お金をくれるのはアルバイトであり、演じる時にはお金のことはいっさい考えていなかった[9]。あの頃は少しテレビドラマ、舞台、PVに出演していたくらいで、結構な金額が手に入ることもある世界で、純粋な気持ちで演技に打ち込んでいたが、そうではないのが勝っていくような大人の事情が見えてしまうこともあった[9]。朴にとって芝居はすごく神聖なものだが、どんどん汚されていってしまい、「そんな場所にはいたくない」思いが徐々に強くなった[9]

演劇集団 円の研究所で一つと下の期にいたところ、同い年の富野由悠季の長女の富野アカリが演出部に入り、その時は、「『ガンダム』の娘がいる」と話題になっていた[7][11]。演出部は一期上の公演にスタッフとして付いてくれるため、交流もあり、皆で富野アカリの別荘へ遊びに行ったこともあった[7]。その時に富野がおり、「ああ、この人がガンダムの生みの親だ」と思った[7]。その家には玄関にガンダムの立像が飾っており、「ああ、ここにもガンダムが!」と思った[7]

演劇集団 円の研究所時代は切磋琢磨しながらのモノ作りの面白さを強烈に感じていたが、劇団員になりだんだん経験を積んでいくに従い、自分がひとつのコマのようになっていくような感覚になってきた[7]。自分が失われていくような感じがあり、「これは自分がやりたかったことかな」と思うようになった[7]。一つの型にはめられていくのは自分の性には合わず、「役者業業であるならば潔く辞めて他の道を探そう」と思った[7]

円の演劇研究所時代はアルバイトをさせてくれなかったが、正式に演劇集団 円に入ってから初めてアルバイトをしていた[53]。その時は携帯電話を売るのが天才的に上手く、あらゆる大手電気量販店で携帯電話を売りまくっていた[53]。あとはスーパーの冷凍商品販売で品切れにしたこともあった[53]。たくさんソーセージを売っていたため、仕事場で重宝されていた[7]。自分のやり方で販売できることにやりがいを感じて「いっそ販売で生きていこうかな」と思い始めていた[7]。それほど仕事がなかった時、円の人物からたまに仕事のオファーの話がくると「えーバイトできないじゃん」と本気で思った[53]。この仕事をしていると、急に仕事、稽古が入ることも多いため、周囲はアルバイトスケジュールなどの変更でアルバイトをクビになってしまった人物もいたが、朴は売り上げが良かったためクビにならなかった[53]。その時、「私自身、このまま社員になってもいいかな」と思ったくらいであった[53]。それまであれほど反対していた両親も、認めてくれた[53]

演劇集団 円に入ってから2年後、前述のとおり、役者を辞めようとしていたところに『ブレンパワード』のオーディションの話が来て、マネージャーから「受かるわけないから最後だと思って行って来たら」と言われ、「絶対ダメだ」と思い軽い気持ちで参加したが監督の富野の目に止まって合格した[9][10][11][17][52]

それ以前に『機動戦士ガンダム』など富野の作品を意識されたことはあまり拝見していなかった[7]。『ガンダム』は知っており、弟が熱中していたが、当時の知っているアニメーションは『銀河鉄道999』、『宇宙戦艦ヤマト』までであった[7]。オーディションは富野の作品と知らずに受け、声の仕事も初めてのオファーで、職業として声優があることも知らなかった[41][53]。アニメ、ナレーションなどは生身の人間が喋っている感覚が希薄で、気にしていなかった[41]。声の仕事を始めてから気にした[41]

オーディションに先立ち年に1回、演劇集団 円の先輩であった橋爪功の別荘で、行っている菜の花舞台を観に来ていた富野が朴をじっと見つめていた[10][11][52][53]。その舞台を観た後からオーディションを案内され、受かるわけないわけがなかった[52][53]

『ブレンパワード』の時は、今まで舞台を中心に活動していたため、声だけの仕事は全く初めてであったが、演技をすることには全く違和感は感じていなかった[41]。その時は面白くて楽しい現場で、芝居を仕事にすることに幻滅することも多かった[9]。収録現場では、それぞれの役者が自分のポジションをきっちり理解し、役を担って次の人物へとパトンタッチしていく姿を見て「舞台以上に舞台だな」と感じていた[9]。収録の日が来るのが楽しみで、「こんな素晴らしい世界があったのか」と心が震えていた[9]。一瞬ごとに役者の皆がキャラクターに命を吹き込んでいく様を目のあたりにしていた時は、「これぞ演劇だ」と感銘を受けた[9]

朴にとって富野は「第二のお父さんのよう」に感じており、カッコつけることができない性格のため、自分の思いをそのまま富野にぶつけていた[7]。それを富野が優しく「近づくな」と言った[7]

朴にとって大きな転機になり、初めての声優経験であったが、周囲の先輩に助けられながらカナン・ギモス役を演じ切り、「大きな充実感も得た」と語る[10]。カナン役に対する思い入れはかなり大きく、「カナンの人柄は、自分が当時持っていた焦燥感によく似ていた」といい、『ブレンパワード』が最終回を迎えた時は、「永遠に続いてほしい」と思っていたが、当時は舞台系の事務所に所属していたため、「声の仕事は最後だろうな」と思っていた[7][10]。『ブレンパワード』の打ち上げでは、ベロベロになるほどに泣き、富野から「また会うかもしれないし」と言われても大号泣であった[7][10]。しかしその後、すぐに『∀ガンダム』のオーディションがあり、富野に再び会った[7]

突然声優としての仕事が始まり、それぞれの番組が終わる度に「もうこれで声の仕事はないだろうな」と思ったが、次々と仕事をくれて莫大に増えた[41][29]。しかし一度、全部声の仕事をきれいに清算し、「舞台に戻ろう」と思った時期もあった[29]。あまりの仕事量に自分の許容量を超えてアレルギーのようになり、声は枯れたことはなかったが、生まれて初めて枯れてしまい自信を喪失してしまった[29]。それ以降の作品も、自分の中でできるかできないかでぐるぐる迷っていた[29]。その時に「やっぱり私はいつも最初だけで後はダメなのかな……、いやそうじゃない!!ここで一発、朴美、変えようじゃないか」、「最初良ければ終わりも良しにしようぜ」と思い、少し踏ん張ろうと決めた[29]