田中将大


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兵庫県伊丹市出身[8]伊丹市立昆陽里小学校1年時に軟式少年野球チーム「昆陽里タイガース」で野球を始め[9]、4番・捕手として坂本勇人バッテリーを組んでいた。打撃練習では左翼方向への本塁打を連発し、同じ方角にある校舎の窓を直撃したことが何度もあったという[10]。小学校時代の最高成績は6年時の県大会準優勝。伊丹市立松崎中学校時代にボーイズリーグの宝塚ボーイズで硬式野球を始めると強肩を買われて投手も兼任するようになり[11]、3年時には関西南選抜チームに選出された[12]

2004年、駒澤大学附属苫小牧高等学校入学。1年秋の明治神宮野球大会(35回大会)では背番号2の正捕手であった[13][14]。1回戦の新田高校戦では捕手、準々決勝の羽黒高校戦では投手で出場している(チームは準々決勝で敗退)。

 
決勝再試合のスコアボード

2005年、2年夏の第87回全国高等学校野球選手権大会ではチーム最多となる25回2/3を投げ、チームも大会連覇を果たす[15]。決勝戦で優勝を決めた最後の1球は2年生では史上初の150km/hを計測した[16]。大会後、AAAアジア野球選手権大会日本代表に2年生では堂上直倫と2人だけ選出され[17]優勝。秋から香田誉士史が監督に就任後初のエース兼主将となり[11]、秋季北海道大会では堂上を参考にフォーム改造した[17]打撃でも決勝を含む5試合中4試合で本塁打を打つなど活躍。決勝では過去最多の13点差で優勝した[18]。その後行われた第36回明治神宮野球大会でも北海道勢として初めて決勝に進出して優勝し、第78回選抜高等学校野球大会では優勝候補に挙げられていたが、部員の不祥事により出場辞退となった。

 
高校時代の田中(2006年8月17日、阪神甲子園球場

2006年、史上2校目の夏3連覇が懸かった第88回全国高等学校野球選手権大会では大会直前から体調を崩したが[19]、チームは決勝に進出。早稲田実業学校高等部との決勝戦では3回途中からリリーフ登板して延長15回まで1失点。チームは1-1で引き分け、37年ぶりの決勝引き分け再試合となった[20]。再試合でも1回途中から登板し、7回3分の1を投げ3失点に抑えたが、チームは3対4で敗れる。自身が最後の打者となった(空振り三振)[19][21][22]。甲子園通算成績は春夏12試合の登板で8勝無敗だった[9]。大会後は日本高校野球選抜としてアメリカ遠征に参加した[23]

9月25日の高校生ドラフト会議では、北海道日本ハムファイターズオリックス・バファローズ横浜ベイスターズ東北楽天ゴールデンイーグルスから1巡目指名を受け、抽選の結果楽天が交渉権を獲得[24]。11月2日に楽天と仮契約を結んだ。背番号は18[25]

9月30日に開幕した秋ののじぎく兵庫国体では1回戦で13奪三振、無失点に抑える[26]など決勝までの3試合24イニングを無失点で抑えるも、10月4日の早稲田実業高等学校との決勝戦では甲子園でも投げ合った斎藤佑樹に適時打を打たれ、0-1で敗れ準優勝[9][27]

高校時代の公式戦通算成績は57試合の登板で35勝3敗、計329回2/3を投げ、防御率1.31、奪三振数は横浜高等学校松坂大輔を上回る458奪三振を記録[9]。周囲からは「怪物」「世代最強エース」などと評された[9]。高校通算本塁打数はベースボール専門メディア「フルカウント」の記事によると13本であるが[28]、田中本人によると17本とのこと[29]

 
楽天時代
(2007年6月26日、宮城球場

2007年は春季キャンプでのフリー打撃、紅白戦、オープン戦の初登板が全て雨で中止か延期となり、チーム内で雨男とあだ名された。3月29日の対福岡ソフトバンクホークス戦で初登板初先発、1回2/3を投げて打者12人に対し6安打3奪三振1四球で6失点。4試合目の登板となった4月18日の対ソフトバンク戦で9回を2失点13奪三振に抑え初勝利初完投。6月13日の対中日ドラゴンズ戦で高卒新人では2005年ダルビッシュ有以来の完封勝利を記録。同年のオールスターゲームに高卒新人では1999年松坂大輔以来となるファン投票で選出された。7月22日の第2戦に先発して自己最速の153km/hを記録した(2回6失点)。7月10日には高卒新人として松坂大輔以来史上6人目、江夏豊と並び最速タイとなる96回2/3でのシーズン100奪三振を記録。8月31日の埼玉西武ライオンズ戦で松坂大輔以来となる高卒新人、および球団史上初となる2桁勝利を挙げた他規定投球回にも到達した。楽天球団の高卒新人による規定投球回到達は球団初である。リーグ4位の186回1/3を投げて11勝を挙げ、リーグ2位で高卒新人では歴代4位の196奪三振を記録。高卒1年目で新人王を受賞した。これは松坂大輔以来8年ぶり、2021年現在では田中が最後。同年は連敗ストッパーとなることが多く、監督の野村克也は「だって(田中は)ウチのエースだもん」と答えたこともあった。ソフトバンクとの相性が良く、登板6試合のうち5試合で勝利投手になった。

2008年はシーズン前に2年目のジンクスについて聞かれると「全く考えていない。いまやるべきことをやるだけ。そのことは二度と聞かないでほしい」と答えた[30]。5月4日の対北海道日本ハムファイターズ戦(札幌ドーム)で勝利投手となり、北海道で初勝利を挙げた。また、この試合後には同球場では史上初の対戦チーム選手のヒーローインタビューが流された[31][注 1]。交流戦の最終戦の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)ではプロ入り初セーブを挙げた[32]北京オリンピック(北京五輪)の野球日本代表に選出され、背番号は15[33]。大会を通じ3試合に登板、7イニング無失点だった[34]。レギュラーシーズン最終戦の10月8日の対ソフトバンク戦(Kスタ宮城)で9回を6安打無失点に抑え、チームは延長12回にサヨナラ勝利するが[35]田中は勝利投手とならず、この年は9勝に終わるが、高卒新人としては40年ぶりの2年連続150奪三振を記録した[36]

2009年開幕前の3月に開催された第2回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)日本代表に選出された。同大会では日本の2大会連続2度目の世界一を経験している。

シーズンではホーム開幕戦となる、対ソフトバンク戦に先発して完封でシーズン初勝利を挙げた。また、4月14日の対千葉ロッテマリーンズ戦で1失点完投、4月22日のロッテ戦で完封、4月29日の対日本ハム戦で野村克也の監督通算1500勝目となる1失点完投と、1993年小宮山悟長谷川滋利以来となる開幕から4試合連続完投勝利を記録し、自身初の月間MVPに選出された。5月13日の対日本ハム戦で完投は途切れたが、6月3日の対阪神タイガース戦で敗れるまで開幕7連勝を記録。6月11日の中日戦で8勝目を挙げた後は、7月20日の対ソフトバンク戦で抑えとして登板して自己最速を更新する155km/hを計測し、防御率1点台を維持しつつもオールスターゲーム後まで勝ち星からは遠ざかっていた。8月7日の日本ハム戦で約2か月ぶりの勝利となる9勝目を挙げて以降は安定した結果を残し、8月27日の西武戦で自己最多となる12勝目を記録。8月には4試合に登板して4勝0敗、防御率1.44、30奪三振で自身2度目となる月間MVPに選出される。援護率がパ・リーグでワースト2位の3.54だったにもかかわらず、最終的にリーグ2位タイ、チームトップとなる15勝、リーグ3位となる防御率2.33を記録。10月17日のクライマックスシリーズ第1ステージ第2戦の対ソフトバンク戦では自身初の無四球完投勝利を挙げ、チームの第2ステージ進出に貢献した。12月25日の契約更改では1億500万円増、プロ入り4年目の選手としてはダルビッシュに次ぐ史上2番目の高額契約となる推定年俸1億8000万円で契約。

2010年はシーズン開幕から低調なチームの中でも奮闘した。5月には自身3度目となる月間MVPを受賞し、6月までにチームトップの8勝を挙げた。しかし7月に太腿の肉離れで戦線離脱。8月に復帰するも、8月29日の対西武戦で投球中に違和感を訴えて降板すると右大胸筋部分断裂と診断され、以降の試合は欠場している。最終成績の11勝、防御率2.50はチームトップだったが、奪三振や投球回はプロ入り後最低となった。11月15日にはタレントの里田まいとの交際を自身のブログで公表した。

2011年1月12日にホリプロよりマネジメント契約を結んだことが明らかにされた[37]。公式戦シーズンは、6月と7月には2か月連続で月間MVPを受賞、8月7日の対日本ハム戦を迎えるまでの開幕から16試合連続でクオリティ・スタートを達成し、8月27日の対ソフトバンク戦では野田浩司に次ぐ歴代2位(当時[注 2])の1試合18奪三振を記録。9月10日の対日本ハム戦では、2006年夏の甲子園の決勝以来となる斎藤佑樹との対戦となり、前売り券のみで売切れるほどの大きな盛り上がりを見せ、結果は田中が1失点完投で勝利した。この試合は「ジョージア魂」賞の年間大賞に選ばれている。シーズン前半は10回無失点ながら勝ちが付かないなど、中々打線の援護に恵まれなかったが後半に勝ち星を伸ばし、最終的に19勝5敗。前述の6、7月の他に10月も月間MVPを受賞し、リーグ史上初となる年間3度の月間MVP受賞を果たした。投球回は初の200イニング超えの226回1/3イニング、年々減っていた奪三振は241とイニング数を超える数を記録。防御率はパ・リーグ史上2位となる1.27で、2リーグ制以降では歴代5位の記録である。この年は最多勝利D.J.ホールトンと同数)、最優秀防御率最優秀投手、最多完封(6試合、ダルビッシュと同数)の4冠を獲得。他に両リーグトップの完投(14試合、ただし、2試合10イニングを投げた試合があるがいずれも決着が付かなかったため完投ならず)、無四球試合(5試合)も記録。四球の数も減り、過去最多のイニングを投げながら四球は僅か27と過去最少で、パ・リーグの規定投球回に到達した投手の中では3番目に少なく与四球率1.07、K/BBは最多奪三振を記録したダルビッシュの7.67を上回る8.93を記録し、沢村栄治賞を初受賞[38]、他にもベストナインにも選出され、ゴールデングラブ賞最優秀バッテリー賞も獲得した。

2012年1月26日に里田まいとの婚約を発表[39]。シーズン開幕を控えた3月20日に里田との婚姻届を提出した[40]。3月30日の開幕戦では自身初の開幕投手を務めたが、6回5失点で敗戦投手となった。4月22日に腰痛で2年ぶりに戦線離脱した。復帰後の5月30日の対巨人戦は先発の杉内俊哉と互いに8回まで投げ2桁奪三振を記録する勝負だったが、チームはノーヒットノーランで敗れ敗戦投手に。7月6日の西武戦では先発登板が予定されていたが、投球練習中に右脇腹に違和感を訴えて先発登板を回避し、代役として中7日で塩見貴洋が登板することになった。8月19日の対西武戦(西武ドーム)では通算1000奪三振を記録するものの6失点で敗戦投手となるが[41]、8月26日の対日本ハム戦では延長10回を無四球完封勝利を挙げ[42]、これより翌シーズンにかけての連勝記録をスタートさせることになる[43]。シーズン終盤に4連勝し、最終戦で10勝目を挙げ、4年連続の2桁勝利となった[44]。防御率は2年連続の1点台となる1.87、リーグ最多奪三振を記録。また完投、完封もリーグトップを記録。規定投球回達成者では最少となる19四球、BB/9は0.99と1を割り込んだ。

オフの12月4日に第3回WBC日本代表候補選手34人に選出された[45]。また12月22日に3年12億円+出来高で契約更改し、「将来的に、そういうところ(メジャー)でやろうという気持ちが芽生えたので、早いうちに伝えようと思いました」と将来的なメジャーリーグ挑戦の意思があることを明らかにした[46]

 
2013年3月8日、WBC日本代表出場時
 
楽天時代
(2013年5月12日 QVCマリンフィールド

2013年2月20日に第3回WBC日本代表選手28人に選出された[47][48]。同大会では先発として起用されていたが、中継ぎに配置転換され[49]、4試合に登板。7イニングで防御率2.57の成績だった。

レギュラーシーズンでは開幕から連勝を重ねた。4月は4試合に登板し、3勝0敗。なお4月16日の対ソフトバンク戦では7回3失点でリードのまま降板しているが、チームがその後逆転負け。田中に勝ち負けはつかなかったが、この年のシーズン公式戦では唯一の田中が登板しての敗戦となった[50]。5月は5試合に登板し4勝0敗で、通算8度目となる月間MVPを獲得した。これは、投手としてはパ・リーグ最多、5年連続受賞は投手としてはプロ野球初[51]。6月16日の対阪神戦(Kスタ宮城)で球団新記録の開幕から9連勝[52]。6月は4試合登板で3勝0敗で、史上初の2度目の2か月連続、通算9度は投手としては日本プロ野球最多タイの月間MVP受賞[53]。7月は4試合登板で3完投の4勝0敗として、パ・リーグ初の3か月連続、日本プロ野球タイ記録の年間3度目、通算10度目(いずれもイチローの記録に並ぶ)の月間MVP受賞となった[54]

8月2日の対日本ハム戦(札幌ドーム)で、開幕から15連勝として間柴茂有1981年)と斉藤和巳2005年)の日本プロ野球記録に並んだ[55][56]。8月9日の対ソフトバンク戦(Kスタ宮城)で日本プロ野球新記録の開幕16連勝、また前年から20連勝で、松田清1951年 - 1952年)と稲尾和久1957年)の日本プロ野球記録に並んだ[57][58]が、先発登板だけで20連勝は史上初である[59]。8月16日の対西武戦(西武ドーム)で日本プロ野球新記録の21連勝[60][61]。8月30日の対ソフトバンク戦(ヤフオク)で開幕からの連勝を19として、にルーブ・マーカード1912年記録したメジャーリーグの開幕連勝記録に並んだ[62]。8月は5試合に登板し、5勝0敗で、日本プロ野球新記録の4か月連続、年間4度目、通算11度目となる月間MVPを受賞[63]。9月6日の対日本ハム戦(Kスタ宮城)で稲尾和久1957年)の記録に並ぶ日本プロ野球タイ記録のシーズン20連勝。シーズン20勝は2008年の楽天の岩隈久志以来。メジャーリーグの開幕連勝記録を上回った[64]。9月13日の対オリックス戦(Kスタ宮城)でシーズン21連勝、日本プロ野球新記録となり、カール・ハッベル1936年から1937年にかけて記録したメジャーリーグ連勝記録を上回った[65]。9月21日の対日本ハム戦(札幌ドーム)で日本プロ野球では1980年の木田勇以来33年ぶり、2008年の岩隈久志を上回る球団新記録のシーズン22勝目で、2003年の斉藤和巳以来の日本プロ野球タイ記録の15試合連続登板勝利[66]。楽天の優勝へのマジック2で迎えた9月26日の対西武戦(西武ドーム)で1点差で迎えた9回裏に、同季初のリリーフで登板。この時、ほぼ同時刻に2位のロッテが敗れてマジックが1となり、このまま勝てば優勝決定の場面で、田中は走者を2人出したものの無失点で抑えて胴上げ投手となり、チームは初のリーグ優勝を決めた[67]。田中のセーブは4年ぶり[68][注 3]。9月は4試合登板で3勝1セーブとして、5か月連続、通算12度目の月間MVPを受賞[68]。その後も連勝は途切れることなく、同季最終登板となった10月8日の対オリックス戦(Kスタ宮城)でシーズン24勝目を挙げた[69]。シーズン中の田中のクオリティ・スタート率は100%であり、全試合を6イニング以上、自責点3以下に抑えた。

ロッテとのクライマックスシリーズ(CS)ファイナルステージでは第1戦(Kスタ宮城)に先発登板し2対0で、CSでは初の完封勝利[70]。CSで3試合連続勝利はタイ記録で史上3人目、3試合連続完投勝利はCS新記録[71]。日本シリーズ進出を決めた第4戦でも9回表にリリーフで登板し無失点に抑えて、パ・リーグCSの最優秀選手に選ばれている[72]。巨人との日本シリーズでは第2戦(Kスタ宮城)に先発し、シリーズ史上18人目20度目の2桁奪三振[73]、シリーズ史上3人目の毎回の12奪三振で、自身と球団シリーズ初勝利を挙げるが[74]、チームの日本一まで残り1勝だった第6戦(Kスタ宮城)では、9回を160球で完投も被安打12で[75][76]、この年のシーズン公式戦から含めてワーストとなる4失点で敗戦投手となった[50][77]。翌日の第7戦(Kスタ宮城)でも3点リードで迎えた9回から登板。打者5人に15球で無失点で抑えてセーブを挙げ、球団史上初の日本一が決定すると共に、田中が胴上げ投手となった[78]

この年は、最多勝最優秀防御率勝率第1位投手を獲得。前年からの連勝を28、開幕からの連勝を24としてそれぞれ日本プロ野球新記録を達成。規定投球回数に達し、勝率10割としたのは日本プロ野球史上4人目[注 4]で、シーズン無敗で最多勝は日本プロ野球史上初[69][79]。沢村賞は選考委員会でわずか10分満場一致により選出され[80]ベストナイン投手部門では24年ぶり[注 5][81]、自身初のMVPでは投手野手通じて48年ぶりに、記者投票で満票を獲得しての受賞となった[注 6][82]

11月23日に行われた球団のファン感謝祭において、開幕からのシーズン24連勝に前年からの28連勝と、これにポストシーズンの2勝を含めた30連勝の3つがギネス世界記録として認定され、認定証が贈られた[83]

ポスティングシステムの新協定成立後の12月17日には翌シーズンのMLB挑戦を希望していることを表明し[84]、25日に球団からポスティングシステムの行使を容認される[85]。マネジメント契約を結んでいたホリプロとの契約はこの年で終了し[86]エクセル・スポーツ・マネジメントケーシー・クロース英語版を代理人として契約交渉を行う。田中はプロ入り当初からメジャー願望を持っていたことを当時の監督であった野村が後に明かしている[87]

 
ニューヨーク・ヤンキース時代
(2014年6月28日)
 
ニューヨーク・ヤンキース時代
(2014年7月8日)

2014年1月22日にニューヨーク・ヤンキースと総額1億5500万ドルの7年契約に合意したことが発表された[88]。投手としてはMLB史上5位の契約額となり、4年目終了後には契約をオプトアウトしてFAとなれる条項が付く[89]。合意後の会見ではヤンキースとの契約を選んだ理由について「最大限の評価をしてもらった。世界でも名門のチームだし、いろいろなものを感じながら、違ったものを感じながらプレーすることができるのではないかなと思っています」と語った[90]。24日には背番号が19に決定したことが球団から発表された[91](楽天時代の背番号18はすでに黒田博樹が使用していたため)。これにより、田中は楽天から3人目のメジャー移籍選手(1人目は福盛和男、2人目は岩隈久志)となったが、楽天生え抜き選手だけなら田中が最初の選手となった。渡米時には、本人や家族と関係者計5人と愛犬1匹のため、かつ入団会見やキャンプに「ベストなコンディションで臨むため」に日本航空ボーイング787を自費負担でチャーターしたことが話題となった[92]スプリングトレーニングでは3度の先発を含む5試合に登板し、2勝0敗、防御率2.14、WHIP0.86と好投。3月29日にはスプリングトレーニングで活躍した1年目のヤンキースの選手に与えられる「James P. Dawson Award」を受賞した[93]

開幕4戦目となる4月4日のトロント・ブルージェイズ戦でMLB初登板となる初先発を果たした。1回裏に先頭打者のメルキー・カブレラに本塁打を打たれたが、7回を6安打3失点(自責点2)8奪三振の投球で、NPB/MLB通算100勝目となるMLB初勝利を挙げた[94]。5月14日のニューヨーク・メッツ戦では9回を4安打無失点の好投でMLB初完封勝利を挙げ、9回の第三打席ではMLB初安打も記録[95]。5月20日のシカゴ・カブス戦では6回8安打4失点(自責点3)でMLBでの初敗戦投手となり、2012年8月26日から続いたNPB/MLBレギュラーシーズンでの連勝記録は34で止まった[96]。6月3日には日本人投手史上3人目となる5月のリーグピッチャー・オブ・ザ・マンスを受賞した[97]。ヤンキースの新人投手では史上初の受賞となった。6月28日のボストン・レッドソックス戦では9回2失点の投球で敗戦投手となり、プロ入り後では2010年6月以来の連敗を喫するが、1973年スティーブ・ロジャース以来となるMLB最長タイ記録となるメジャーデビューからの16試合連続クオリティ・スタートを達成[98]。前半戦は18試合の先発で12勝4敗、防御率2.51、WHIP1.01の成績を残し、オールスターゲームに選手間投票1位で選出される[99]が、7月9日に右肘の違和感を訴え15日間の故障者リスト入りしオールスターゲームを辞退した[100]。翌日に右肘靭帯の部分断裂で全治6週間と診断され[101]、PRP療法という保存療法での回復を目指しリハビリを行う[102]。9月21日のブルージェイズ戦で復帰し、投球数70球で5回1/3を5安打1失点の投球で13勝目を挙げる[103]。シーズン最終登板となった復帰2戦目のレッドソックス戦ではMLB移籍後最短の1回2/3を7安打5自責点と打ち込まれる[104]。チームはポストシーズン出場を逃したが[105]、復帰後は右肘に異常なくシーズンを終えた。この年は離脱の影響もありNPBでは全ての年で満たしていた規定投球回に初めて届かなかった[106]

2015年4月6日のトロント・ブルージェイズとの開幕戦で日本人4人目となる開幕投手を務めたが、4回5失点(自責点4)で敗戦投手となった。4月23日の登板後、右肘の不調で1か月以上登板できなかった。前半戦は11試合に先発して5勝3敗・防御率3.63を記録した。8月28日のアトランタ・ブレーブス戦で7回5安打3失点に抑えてシーズン10勝目(6敗)を挙げた。9月6日、夫人の里田まいが第1子妊娠を公表[107]。この年は24試合に先発し、12勝7敗、防御率3.51の数字を残し、シーズンオフの10月に右肘の骨片を取り除く手術を受けた[108]。この年も1か月以上登板できなかった影響で2年連続で規定投球回を逃した。

2016年2月15日に妻の里田まいニューヨークの病院で第1子となる長男を出産[109]。母子ともに健康とされる。田中はフロリダ州タンパでのトレーニングを切り上げてニューヨークに向かい、出産に立ち会っている[110][111]。オープン戦では防御率7.36と振るわなかった。4月5日のヒューストン・アストロズとの開幕戦、日本人2人目となる2年連続の開幕投手を務め、5+23回2失点と好投したものの勝ち負けはつかなかった[112][113]。9月21日のタンパベイ・レイズ戦では自己最多となる14勝目を記録したが[114]、右前腕の張りのため先発が予定されていた同月26日の登板を回避した[115]。それでも、メジャー3シーズン目にして初めて規定投球回に到達。チームトップの14勝を挙げた[116]ほか、防御率は最終盤まで最優秀防御率獲得のチャンスがあったが最終的に3.07のリーグ3位で1位とは0.07差で終えた。

2017年1月23日に自身のTwitter第4回WBC日本代表不参加の意思を表明した[117]スプリングトレーニングでは開始早々に当時の監督であるジョー・ジラルディから開幕投手に指名され、シーズンの目標として「34試合登板、230イニング」を宣言した[118]。オープン戦は3勝1敗、防御率0.42を記録。開幕戦の4月2日のレイズ戦に先発し、日本人投手初の3年連続開幕投手となったが、3回途中で7失点と炎上した[119]。14日のカージナルス戦で同年シーズン初勝利を記録[120]。27日のレッドソックス戦では2014年5月14日のメッツ戦以来となる完封勝利を記録した[121]。8月27日のマリナーズ戦で同年シーズン10勝目を挙げ、日本人メジャー初のデビューから4年連続2桁勝利を記録した[122]。9月2日のレッドソックス戦ではMLB通算50勝目を記録。101試合目での到達は日本人投手史上最速記録[123]。14日のボルチモア・オリオールズ戦ではNPB/MLB通算150勝を記録した[124]。シーズン成績は13勝12敗、防御率4.74だったが、ポストシーズンでは2勝1敗、防御率0.90を記録した[125]。オフの11月3日にオプトアウト権を行使せずヤンキースに残留することを発表[125]

2018年は3月31日の開幕2戦目にシーズン登板。6回3安打1失点8奪三振という好投し、ルーキーイヤーから実に4年ぶりとなる白星スタートを飾る[126]。シーズン中盤、4週間の故障者リスト入りをするものの、最終的に「5年連続12勝」を達成した。NPB時代から含めると「10年連続2桁勝利」を達成しており[127]、「NPBとMLBに跨っての10年連続2桁勝利」は史上初の快挙である。この年は3年ぶりに規定投球回未達に終わったが、12勝6敗、防御率3.75、WHIP1.13という成績を記録した[128]。この年は、故障者リスト入りするまではイマイチだったが、復帰後に調子を上げた[129]。また、ポストシーズンではボストン・レッドソックスとのALDSで、チーム唯一の勝ち星を挙げた[129]

 
ニューヨーク・ヤンキース時代
(2019年4月4日)

2019年3月28日のオリオールズとの開幕戦で日本出身の投手として最多となる4度目の開幕投手を務め、5回2/3を6安打2失点(自責1)無四球5奪三振の好投で、念願の開幕戦初勝利を飾った[130]。6月17日の対レイズ戦(ヤンキースタジアム)に先発し、9回2安打10奪三振1四球の快投でMLBでは自身4度目・1年ぶりの同年初完封[注 7]。二塁を踏ませない快投だった。これでMLB通算69勝となり、王建民を抜きアジア出身の投手では単独4位[131]となった[132]。また、ヤンキースで被安打2以下、10奪三振以上の完封劇は、2002年マイク・ムッシーナ以来17年ぶり[133]。10奪三振&完封勝利は日本人ではダルビッシュ有黒田博樹野茂英雄(5度)に次いで4人目となった[134]。6月29日と6月30日にライバルのレッドソックス英語版とMLB史上初となるヨーロッパでの公式戦となったロンドンロンドン・スタジアムでの「ロンドンシリーズ英語版」にヤンキースの一員として帯同。6月29日の試合に先発登板。しかし、両先発が1回持たずに降板(田中は2/3回、リック・ポーセロは1/3回)というMLB史上初となる珍事となった。試合は17対13でヤンキースが勝利[135]MLBオールスターゲームに代替選手として選出された。7月9日に開催されたMLBオールスターゲームでは、2回から2番手で登板して日本人史上3人目の登板を果たした。1回を1安打無失点に抑えると直後に味方が得点し、MLBオールスターゲーム初出場で日本人史上初の勝利投手となった[136]。また、ヤンキースの投手がオールスターゲームで勝利投手となったのは71年ぶり5人目である[137]。7月14日のブルージェイズ戦で、6回2失点で同年6勝目を挙げ、野茂英雄(123勝109敗)、黒田博樹(79勝79敗)に次いで日本人選手3人目となるMLB通算70勝(39敗)を記録した[138]。8月11日のブルージェイズ戦(ロジャーズ・センター)で、9回途中3安打無失点で同年8勝目を挙げ、NPB/MLB通算171勝目(NPB99勝、MLB72勝)。現役日本選手の勝利数で松坂大輔岩隈久志の各170勝を抜き単独トップに立った[139]。8月27日の対マリナーズ戦(T-モバイル・パーク)で7回を投げ3安打無失点、1四球7奪三振の力投でシーズン10勝目(7敗)を挙げ、日本人投手初となる6年連続2桁勝利を達成した[140]。NPB時代から含めると11年連続での2桁勝利となった。9月19日、マジック「1」で迎えたエンゼルス戦で先発登板。7回4安打1失点と好投し、ヤンキースの7年ぶり19回目のア・リーグ東地区優勝に貢献した。また、この試合で日本人投手5人目のMLB通算1,000投球回となった[141]。同29日のテキサス・レンジャーズ戦でMLBでは初のリリーフを経験。2回から2番手として登板したが、3回5安打2失点で敗戦投手となった[142]。最終成績は11勝9敗・防御率4.45で、対レッドソックス戦を除く29登板での防御率は3.52だったのに対し、対レッドソックス戦では3先発で防御率24.75を記録した[143]。ポストシーズン、まずディビジョンシリーズ第2戦の先発で5回1失点に抑えてチームの全勝に貢献した。続くリーグチャンピオンシップシリーズ第1戦を6回無失点に抑え、デビュー以来PS7試合連続で2失点に封じたMLB史上初の先発投手となった[144]。しかし第4戦では5回3失点で敗戦投手になり、その後チームもこのシリーズで敗退した。オフに右肘のクリーニング手術を受けた[145]

2020年は開幕2戦目の登板が有力視されていた[146]が、新型コロナウイルス感染症の流行の影響で、シーズン開幕が不透明となった。アメリカでの感染拡大は終息の兆しが見えず、3月下旬にキャンプ地のフロリダから家族と共に日本に一時帰国した。アメリカではアジア人への差別や暴力なども発生する状況となっており、田中は球団広報を通じて「感染以外でも身の危険を感じさせられる出来事があり、十分に注意をしながら一時帰国する決断をしました」とコメントを出した。帰国後は日本政府の要請に従い、2週間の自宅待機となった[147][148]。その後、7月4日から夏季キャンプが始まるのに合わせ、再度ニューヨークへ渡った[149]。夏季キャンプ1日目の7月4日、練習中にチームメイトのジャンカルロ・スタントンの打った打球が頭部を直撃。約5分倒れ込むも、トレーナーに支えられ自力で歩行し病院に搬送された[150]。その後復帰し、シーズンでは3勝3敗、防御率3.56の成績を記録した。新型コロナウイルス感染拡大によるレギュラーシーズンの試合数大幅削減により60試合制だったことで日本時代の2009年から続けてきた連続2桁勝利は11年でストップした。ポストシーズンではワイルドカードラウンド第2戦で先発したが、5回途中6失点で降板。その後地区シリーズ第3戦にも先発したが、5回途中5失点で敗戦投手となり、チームもこのシリーズで敗退した。オフの10月28日にFAとなった[151]

2021年1月28日に東北楽天ゴールデンイーグルスが獲得を発表した。2年契約で推定年俸は9億円+出来高払いとなり、日本人史上最高年俸となった[152]。背番号は18[3]。開幕第2戦(3月27日・対日本ハム・楽天生命パーク)に先発を予定していたが、3月25日に右ヒラメ筋損傷と診断されたため登板を回避した[153]。4月17日の日本ハム戦(東京ドーム)で日本球界復帰後初登板初先発を果たしたが、初回に中田翔に先制2点本塁打を打たれると2回には石井一成にソロ本塁打を打たれ2回までに3失点を喫する。3回以降は無失点に抑えたが5回で降板し、5回3失点で敗戦投手となった。日本でのレギュラーシーズンで敗戦投手となったのは2012年8月19日の西武戦以来3163日ぶりだった[154]。4月24日の西武戦(楽天生命パーク宮城では6回1失点でNPB復帰後初勝利を挙げると同時に史上139人目のNPB通算100勝を達成した。177試合の登板での達成は史上2番目の早さで、楽天のみでの100勝は田中が史上初だった[155]。9月10日の対ロッテ戦(ZOZOマリンスタジアム)では佐々木朗希と初対決。田中は8回120球2失点、佐々木は8回99球2失点とお互い勝ち負けは付かなかった[156]。結局レギュラーシーズンでは規定投球回に到達し、防御率はリーグ5位となる3.01を記録したものの、4勝9敗と負け越した[157]。オフに、現状維持となる推定年俸9億円で契約を更改した[158]

2022年は開幕から先発ローテーション入りし、5月3日の日本ハム戦で史上181人目のNPB通算1500投球回を達成[159]。5月10日、対ロッテ戦で9年ぶりの完封勝利を挙げる[160]。8月30日に登録日数が9年に達したため、自身初めて海外FA権を取得した[161]。最終戦の10月2日のオリックス戦で5回2失点でパ・リーグ単独最多の12敗目を喫し、9勝で2桁勝利に届かず[162]。25登板で9勝12敗、防御率3.31に終わった[163]。オフの11月9日に取得した海外FA権を行使せずに楽天と再契約を結んだことを発表した[164]。推定年俸は、4億2500万円減となる4億7500万円となった[165]

 
エスコンフィールドHOKKAIDOでの開幕戦で松本剛と対戦する田中(2023年3月30日)

2023年、NPBでは自身11年ぶりとなる開幕投手となる[166]。7月19日、オールスターゲーム第1戦で、3回に3番手で登板し、10年ぶりに日本の球宴で登板した[167]。10月下旬、神奈川県内の病院で「右肘関節鏡視下クリーニング術」を受けたと発表した[168]。オフに、2億1500万円減となる推定年俸2億6000万円+出来高払いで契約を更改した[169]