角田裕毅


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2000年神奈川県相模原市にて生まれる[2]。父親がジムカーナ競技をしていた影響で2005年、4歳の頃に中井インターサーキット[3]で初めてカートに乗る[4]。父親がメカニックを担当し、キッズカート、ジュニアカート競技に出場する。

2010年JAF全日本カート選手権(ジュニアクラス)へ出場[2]2013年にはJAF地方カート選手権 東地域(FS-125クラス)でシリーズチャンピオンを獲得した[2][5]2015年のJAF全日本カート選手権(FS-125クラス)では、総合2位(東地域1位)となる[2][6]

2015年、ZAP SPEED Jr.(当時15歳)にて、フォーミュラの練習を開始。2016年5月、16歳になった角田は四輪レース出場に必要な限定A級ライセンスを取得。鈴鹿サーキットレーシングスクールのフォーミュラ部門(SRS-Formulaアドバンス)に入校し、スカラシップ選考会に進む4名に選ばれる[7]。SRS-F卒業後、デビュー戦となるスーパーFJ岡山シリーズで初出場で初優勝[8]。スーパーFJ日本一決定戦やドリームカップ(F1日本GPの前座レース)で優勝する。また、FIA-F4選手権にSUTEKINA RACING TEAMよりスポット参戦し、初レースとなる第11戦鈴鹿で2位(最年少表彰台)を獲得する。スカラシップ最終選考会は大湯都史樹(主席)と笹原右京(次席)が合格し、角田は落選してしまうが、中嶋悟校長の推薦もありSRS/コチラレーシングのシートを掴む。

2017年は、FIA-F4選手権にSRS/コチラレーシングよりフル参戦し、第2戦の岡山で初優勝(16歳333日での最年少優勝)。ポールポジション4回、シーズン3勝を挙げ、宮田莉朋笹原右京に次ぐ総合3位を獲得[9]。また、フォーミュラ4(JAF F4)地方選手権 東日本シリーズにも同時参戦し、6戦5勝で総合1位となり、続く日本一決定戦も制した[10]

2018年ホンダ・フォーミュラ・ドリーム・プロジェクト(HFDP)の育成ドライバーに選ばれ、引き続きFIA-F4選手権へ参戦。開幕戦から6連続ポールポジション、第2戦から5連勝する走りを見せ、名取鉄平小高一斗とチャンピオン争いを展開。最終的にポールポジション9回、優勝7回を記録し、シリーズチャンピオンを獲得した[11]

 
マカオグランプリで出走中の角田 (2019年)

2018年、ホンダF1のパワーユニットサプライヤーとしてレッドブル・レーシングと提携し、日本人ドライバーの育成プログラムを開始する。同年夏、角田はホンダが派遣した3名のドライバーのひとりとして、ハンガロリンクで行われたF3合同テストに参加し、ダニエル・ティクトゥムレッドブル・ジュニアチーム所属ドライバーを凌ぐトップタイムを記録[12]。ジュニアチーム責任者のヘルムート・マルコに評価され[13]、HFDPとレッドブル・ジュニアチームに同時所属することになった[14][15]。日本人のレッドブル・ジュニアチーム加入は、2006年の黒田吉隆以来2人目。

2019年は、新たに発足したFIA フォーミュラ3選手権(FIA-F3)にイェンツァー・モータースポーツ英語版から参戦。初の海外挑戦で前半戦は苦戦したが、第6戦スパ・レース2で2位初表彰台を獲得。第7戦モンツァ・レース1で3位、レース2で初優勝を飾るなど[16]、チームでただ1人だけポイントを獲得し、総合9位(67ポイント)でシーズンを終える[17]。本人は翌年もFIA-F3で2シーズン目を戦うことになると思っていたが、後半戦の3度の表彰台が評価され、翌年FIA-F2へステップアップすることが決まった[18]

また、FIA-F3と並行してユーロフォーミュラ・オープン選手権英語版(EFO)ヘモトパーク英語版から出走した。開幕戦ポール・リカール・レース1で2位[19]、第3戦ホッケンハイム・レース2では初優勝を果たした[20]。FIA-F3を優先するため第6戦・第7戦を欠場し、最終的にはチームメイトの佐藤万璃音がチャンピオンを獲得し、角田は総合4位となる[21]

2020年は、F1直下のカテゴリであるFIA フォーミュラ2選手権(FIA-F2)にカーリンから参戦。第2戦シュピールベルク・レース2で初ポールポジションからトップを走行するも、無線トラブルやピット作業の遅れで2位に終わる[22]。第5戦シルバーストン・レース2では残り3周でトップに立ち初優勝を果たす[23]。第7戦スパ・レース1ではニキータ・マゼピン(ハイテック)と激しいバトルを展開し、マゼピンのペナルティ降格により2勝目を獲得。最終戦サヒール・レース1でもポール・トゥ・ウィンで3勝目を挙げ、シーズンを通じポールポジション4回、優勝3回(表彰台圏内7回)を記録して総合3位(200ポイント)の好成績を収めた[24][25]。2位のカラム・アイロットとは僅か1ポイント差の3位だった。シーズン終了後の表彰式にてピレリタイヤを最も上手く使用した人物に贈られる「ピレリ・トロフィー」と、F2の最優秀新人賞である「アントワーヌ・ユベール・アワード」を受賞した[26]

2020年シーズン終了後に行われた国際自動車連盟(FIA)の年間表彰式で、FIA管轄全カテゴリの新人ドライバーを対象とした「FIAルーキー・オブ・ザ・イヤー」を日本人として初めて受賞した[27]

2020年11月4日、ホンダPUを搭載するアルファタウリでF1初テストを体験[28]イモラ・サーキットで2018年型F1マシンのトロ・ロッソ STR13に乗り込み、F1のフリー走行へエントリーするために必要な条件である300kmの走破をクリアした[29]。その後、FIA F2最終戦レース1の優勝によりシリーズランキング4位以上が確定し、スーパーライセンス取得に必要な「スーパーライセンスポイント累計40点」という条件をクリアする[30]。F1最終戦アブダビGP終了後の12月15日に行われた若手ドライバーテストでアルファタウリ・AT01に乗り123周を走行[31]。翌12月16日に2021年シーズンからアルファタウリでのF1参戦が正式発表され、2014年小林可夢偉以来途絶えていた日本人F1ドライバーが7年ぶりに誕生することになった[32]。また、F1レギュラードライバーとしては初の2000年代生まれのドライバーとなる。固定カーナンバーは「22」を選択した(角田本人は「11」を希望していたが、現在セルジオ・ペレスが「11」を使用している為、「1+1=2」になるという理由で「22」を選んだ)[33]

 
2021年オーストリアGP
2021年

アルファタウリから出走。チームメイトはピエール・ガスリー

デビュー戦となるバーレーンGPでは、予選Q1で2番手タイムを記録するも、Q2ではタイムが伸びず13番グリッドからのスタートとなった。決勝では序盤17位まで順位を落とすものの、チャンピオン経験者3人(キミ・ライコネンフェルナンド・アロンソセバスチャン・ベッテル)をオーバーテイクするなど印象的なパフォーマンスを見せ、ファイナルラップでランス・ストロールをパスして9位入賞を果たした。F1史上では65人目となるデビュー戦入賞を記録した[34]

一方で第2戦エミリア・ロマーニャGPでは予選ではQ1最初のアタックでクラッシュし、最後尾スタートが決定[35]。決勝ではウェットコンディションの影響によるスピンも含め順位を落としてしまい、12位完走で終わった[36]

この年のドライバーズランキングは14位、32ポイントで終わった。

9月7日、アルファタウリは2022年も角田がピエール・ガスリーと共に続投することを発表した[37]

10月、フォーブス30アンダー30(日本版)の一人に選ばれる[38]

12月、最終戦アブダビGPにて予選8位を記録。最終コーナーのトラックリミット違反でタイム抹消となってしまった。決勝では順調に周回を重ね、4位でフィニッシュし、自己最高位となった[39]

 
2022年エミリア・ロマーニャGP

2022年

2022年も継続してアルファタウリから出走。チームメイトは前年に引き続きガスリー。

この年のマシンであるアルファタウリ・AT03は最低重量798kgから10kg以上の超過があり、他チームに大きく遅れをとっていることが判明した。そして他チームに比べ開発も進まず、シーズンを通して両名とも下位に沈むことが多かった。

開幕戦バーレーンGPの予選ではQ1敗退を喫するも、決勝では上位陣のリタイアもあり8位フィニッシュ。2年連続で開幕戦入賞を果たした。

その後は角田ガスリーともにコンスタントにポイントを獲得。第6戦アゼルバイジャンGPでは揃ってQ3に進出する。決勝でも好ペースを発揮していたが、終盤6位走行中にDRSを損傷し、半分しか開かなくなってしまったことでブラック&オレンジフラッグが提示され、ピットでの修理に大幅なタイムロスが生じ13位で終わった。ガスリーが5位でフィニッシュしたことでドライバーズポイントを逆転されてしまった。

以後は精彩を欠くレースが増え、ポイント獲得はアメリカGPの10位のみとなった。

ドライバーズランキングは17位、12ポイントでシーズンを終えた。ガスリーには予選で9勝13敗、決勝では7勝15敗と敗北しているが、前年よりも差が縮まっている。

9月22日に2023年もアルファタウリから出走することが決定した[40]

 
2023年オーストリアGP

2023年

2023年も継続してアルファタウリから出走。チームメイトは元F2FEチャンピオンのニック・デ・フリース(当初)。前年にアルファロメオのスポンサーであったオーレンと契約を結んだことで、マシンやスーツにイメージカラーの赤色が加えられた。プレシーズンテスト3日目には6番手タイムを記録し躍進が期待されたが、それ以上にチームごとの差が縮まり接戦となっていることもあって、苦戦を強いられるシーズンとなってしまった。

開幕戦バーレーンGPでは14番手グリッドからスタート。これまでの2年間とは別人を思わせるようなペースと安定感を見せて順位を上げていった。終盤でウィリアムズアルボンとの10番手争いとなるが、ストレートに分があったアルボンに逃げ切られ11番手で入賞を逃した。

第2戦サウジアラビアGPではQ1敗退を喫し16番手スタート。決勝では終盤10番手を走行するも、残り僅かのところでハースマグヌッセンに交わされ2戦連続の11番手フィニッシュとなった。

第3戦オーストラリアGPは、近年稀に見るほどの大荒れのレースとなった。序盤、アルボンの激しいクラッシュによりセーフティーカーが発動される。ミディアムタイヤでのスタートだった為、ソフト勢のピットインにより9番手まであがったところで赤旗が提示された。リスタート後はポイント圏内を賢明に走行するも、アルファタウリはレースペースが圧倒的に遅かったために14番手まで後退してしまう。レース終盤、残り数ラップのところでマグヌッセンのクラッシュにより再び赤旗が提示された。再スタート後の1-2コーナーでアロンソサインツ、ガスリー、オコンが接触し、次のコーナーでストロールがグラベルに突っ込んだ辺りでさらに三度赤旗が提示された。この時点で角田はポジションを大幅に上げ5位であったが、次のリスタート時にはファーストコーナーを通った順で11番手スタートとなる。今度はセーフティカー先導のローリングスタートでそのままフィニッシュ。ただし再スタート時のアロンソの接触で先着したサインツに5秒ペナルティが課せられた為、角田は一つポジションが上がり10番手。シーズン初ポイントを獲得した。

第19戦アメリカGPは最後の1周でファステストラップを狙う作戦に出て、1分38秒139のタイムでファステストラップを獲得し、10番手でチェッカーを受けた。レース後、2位のハミルトンと6位のルクレールがプランク摩耗違反で失格となり、8位入賞となった。日本人のファステストラップ記録は、1989年オーストラリアGPの中嶋悟、2012年中国GP小林可夢偉以来、史上3人目となった。

第20戦メキシコGPは、PU交換ペナルティにより、決勝最後尾スタート。決勝では順調に順位を上げ、7番手を走行していたピアストリに追いつくが、1コーナーでのオーバーテイクの際に接触を喫し、16番手まで後退。そこから挽回しようとするも12番手に終わった。

スプリントフォーマットが適用された第21戦サンパウログランプリでは、スプリントシュートアウトで6位となり、スプリントではルクレール、ハミルトンらと戦い抜いて自身初の6位入賞を果たす。16位スタートとなった決勝では、スタート直後の多重クラッシュに乗じて順位を上げると、良好なペースで周回を重ね、最後は9位でフィニッシュ、自身初のスプリントと決勝両方での入賞を飾った。

最終戦アブダビGPでは、予選で自身最高位となる6位に着ける、決勝ではスタートから順位をキープし、途中、他車のピットストップの関係で自身初のリードラップを記録した、これは2004年ヨーロッパGPにて佐藤琢磨が記録して以来、日本人ドライバーとしては2人目、19年振りの快挙であった。その後、他の多くが2ストップ戦略を取る中、角田は1ストップ戦略を遂行、終盤にタイヤに苦しみ順位を落としたものの、最後まで走り抜き8位入賞となった。レース後にはファン投票による「ドライバー・オブ・ザ・デイ」で自身初の得票数1位となった。

ドライバーズランキングは14位、17ポイントでシーズンを終えた、シーズン中はニック・デ・フリースダニエル・リカルドリアム・ローソンとチームメイトが度々変更される中で、いずれにも優位に立ち、またリタイア数も3回(ラスベガスグランプリは完走扱い)と少なくなり、安定感も増し、結果としてチームのコンストラクターズポイントの殆どを稼いだ事で、角田自身の評価が高まったシーズンとなった。

2024年

アルファタウリ改め新生RB・フォーミュラワン・チームとして生まれ変わった。新シャシーのVCARB 01はメタリックブルーとレッドをバランスよく組み合わせたトロロッソ時代のSTR14を彷彿とさせるカラーに白を加えたリバリーとなっている。

チームメイトは昨年途中に引き続きリカルド。

プレシーズンテストでは良好なタイムを頻発し、「目標は中団トップ」という宣言に恥じないパフォーマンスを持っていると期待された。しかしレッドブルフェラーリメルセデスというこれまで3強のに加え、昨年大躍進を果たしたアストンマーティンマクラーレンまでもがトップチームの仲間入りを果たしたために、RBを含めた下位チームに対し圧倒的な差を築いており、入賞圏内が上記の5チームで埋まってしまっていることもあり、昨年よりも前を狙えるマシンではあるが5チームのリタイアを待つ運頼みであるのも現状である。

開幕戦バーレーンGPでは予選11番手を獲得し、決勝では入賞圏内を走行していたもの、タイヤ戦略の影響によって順位が後退。終盤、入賞圏内を争っているわけでもないにもかかわらず、ハースのマグヌッセンを抜くためにチームオーダーでリカルドとのスワップを命じられるなど、フラストレーションが溜まるレースとなった[41]

第2戦サウジアラビアGPでは2024年シーズン初の予選Q3に進出、Q3ではストロールを0.025秒上回り9番手スタートとなる。決勝ではレース序盤にストロールのクラッシュによりセーフティカーが導入されピットストップし、ステイアウトしたマシンに先行を許す。ステイアウトしたマシンをなかなか攻略できずに17周目にマグヌッセンにオーバーテイクされるがコース外から角田を抜いたためマグヌッセンに10秒ペナルティが課されたが、意図的にペースを落とし角田以下をブロックし続けた。ストレートスピードで勝るハースを抜きあぐねている中マグヌッセンを抜きにかかった際の隙を突かれオコンにオーバーテイクされ、更には後続のアルボンにも抜かれてしまい14位でフィニッシュとなり悔しい結果となった。

第3戦オーストラリアGPでは第2戦に続けてQ3進出、8番手スタートとなる。レースでは、フェルスタッペンやメルセデスのハミルトンが相次いでトラブルでリタイアしたことと、スタート時9,10番手だったアストンマーティン勢に抜かれたことが相殺され、スターティンググリッドと変わらず8番手でフィニッシュ。しかしレース後、アロンソの危険走行によるペナルティで順位が繰り上がり7位。今シーズン初にして一挙6の大量ポイントを獲得した[42]

第4戦日本GPでも角田の快進撃は止まらず予選Q3に進む。しかし、周囲のマシンがソフトタイヤを選択した中でRB勢はミディアムタイヤでのスタートを選択した事が裏目に出て、そこに前々から問題となっていたスタートでの蹴り出しの悪さも重なり、スタートに失敗、順位を落としてしまうが、2コーナーの飛び込みで同僚リカルドがアルボンと接触、クラッシュし赤旗が提示された。 再スタートでソフトタイヤを選択した角田は、再スタートを成功させたものの、今度はチームのピット戦略で後手を踏んでしまい、他車にアンダーカットを許す厳しい展開に、しかしその後のピットで角田含む5台のマシンがピットに入るとチームの素早い作業、そして他車のピットミスに乗じて4台をピットでゴボウ抜きして10位へ。その後ストロールやヒュルケンベルグに追われるも持ち前のタイヤマネジメントの妙で逃げ切り母国初入賞。日本人が母国でポイントをあげるのは2012年の小林可夢偉以来12年振り、史上5人目となる快挙となった。

第5戦中国GPはRBが不振に見舞われ予選、スプリント共に結果を残せず。決勝ではボッタスのトラブルストップでSCが出され順位を上げポイント獲得も見えたが再開直後の6コーナーでマグヌッセンと交錯しリタイアとなってしまった(同僚リカルドもポイント圏内走行もSC上げ手前の14コーナーでストロールに撃墜され後にリタイアしRBにとっては非常に残念なダブルリタイアとなってしまった)。

第6戦マイアミGPでは中国の不振が嘘のようにマシンが決まりフリー走行から安定した速いタイムを出すもスプリント予選でトラックリミット違反でタイム抹消となりQ2敗退。同僚リカルドが予選4位を取ったことを考えると残念な結果となったがスプリントレースではハミルトン、マグヌッセンらと激しいバトルを繰り広げるもポイントにととかず9位チェッカー。しかし8位ハミルトンにペナルティが科せられることになり繰り上がりで8位1ポイント獲得。リカルドも4位に入り土曜から大量点を取ることになった。本戦となる決勝でもその速さを維持し7位入賞しチーム、角田本人としても大満足の週末となった。また今回のポイント獲得によりドライバーズランキングTOP10入りし、5強と言われるチーム(レッドブル、フェラーリ マクラーレン、メルセデス、アストンマーティン)に唯一肉薄するドライバーとなっている。

第7戦エミリア・ロマーニャGPでも勢いが止まらない。予選Q2で一時2番手タイムを出し1発のタイムだけでQ3進出を決めてみせる(リカルドもQ3に入りRBは2台共に上位進出)。 Q3では予選トップ3かと思えたがそうはいかず。しかしメルセデスの間に割って入る7位グリッドを獲得し決勝の大量点を狙える位置へ。 しかしレースになるとスタートで今季の課題であるスタートがあまり良くなく宿敵ハースのヒュルケンベルグに先を越される。ただここでもRBの戦略が炸裂しアンダーカットを決めヒュルケンベルグの前へ。その後はストロールに抜かれ1つポジションを落とすも10位に入り今期7戦目にして4回目(マイアミのスプリントも含めると5回目)のポイント獲得となった。コンストラクターズでも7位以下との差を広げる一方、前のアストンマーティンをも凌駕しそうな勢いとなっており今後に期待をもてる展開となった。

第8戦モナコGPもまたしても角田の才能が垣間見えるレースとなる。予選では昨年同様にQ3進出し8位グリッドをもぎ取りレースのポイント獲得チャンスが上がる。 決勝スタートも課題のローンチスタートが上手く行きさらに前方のサインツがアクシデントに見舞われ1つ順位を上げるが、後方でレッドブルのペレスそしてRBのライバルであるハース2台が大クラッシュしレースは約40分の赤旗となる。順位もスタート位置に戻されてしまう。 ただレース再開されるとタイヤを長く持たせる超スローペースでアルボン以下を抑える。前のことは気にせず8位の順位を守ろうとする作戦で角田本人も「イライラしていた」とレース後のインタビューで語るほどだった。レースもあと残り4周くらいからタイヤが持つと踏んだチームそして角田は一気にペースを上げそれまで1秒圏内で張り付いていたアルボンを一瞬で14~5秒離しベストタイムもFLに迫る勢いの速さをみせチェッカー。FLポイントは取れなかったものの8位4ポイントを追加。前年雨により取り逃したモナコでのポイント獲得を果たした。また日本人がモナコでのポイント獲得は08年の中嶋一貴、11年の小林可夢偉に次ぐ3人目となった。 今シーズンはここまで5戦で入賞、ポイント獲得率も約6割となり、いよいよ角田のレーサーとしての強さ、堅実さが整ってきたと思わせるそんな序盤戦になった。

第9戦カナダGPの予選前に、レッドブルは角田との契約において、1年間の延長オプションを行使し、角田が2025年もRBに残留する事を正式に発表した、これにより角田はF1ドライバーとして5年目のシーズンを戦う事が決定、順調に行けば2025年シーズンの第9戦スペインGPで日本人の歴代F1ドライバーの最多出走記録(片山右京が保持している95戦)を塗り替える事となる。

第12戦イギリスGPは第9戦カナダGPでの自身のミスと第10戦スペインGPから投入されたRBのマシンアップデートが失敗に終わった事による、負のスパイラルに陥りつつある中でのレースとなった。 予選で13番手につけた角田は、スタートを成功させて11位に浮上、ドライ路面でのペースに苦しみ、後方のアルボンの追撃に晒される中、イギリス特有の気まぐれな天候が角田に味方する。途中からコース上に本降りの雨が降り始めると、ドライの時とは打って変わって角田は良好なペースで周回し始め、ラッセルのリタイヤに乗じて9番手に浮上、しばらく雨が降り続き、インターミディエイトタイヤでの走行が続いた事で11位以下に大差を付ける事に成功する。雨が止むとドライ路面でのペースで有利なアルボンに交わされたものの、角田は10位でフィニッシュ、4戦ぶりの入賞となった。

続く第13戦ハンガリーGP、予選でカナダGP以来3戦ぶりのQ3に進出した角田であったが、トラックリミット違反を防止する観点から開幕前に改修されたターン5の外側の路面に起因した一瞬宙を舞う程の大クラッシュに見舞われる。68Gもの強い衝撃を受け、マシンの修復如何によってはピットスタートも懸念されたが、チームはマシンの修復に成功、角田は決勝を10番手グリッドからスタートする事が出来た。決勝では他のマシンが2ストップ以上のピット戦略を取る中、角田は1ストップ戦略を敢行、タイヤ供給元のピレリですら「1ストップは不可能」との見解を示す中、角田はハードタイヤで40周のロングスティントを驚異的なタイヤマネジメントで走り抜き、最後はタイヤの差で追い上げてきたストロールに迫られながらも逃げ切り9位でフィニッシュ、2戦連続の入賞を果たした。