ちあきなおみ


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神奈川県生まれ[1]東京都板橋区育ち[1]。3姉妹の末っ子として誕生し、芸事の好きな母の影響で4歳でタップダンスを習い、5歳の時日劇にて初舞台を踏む。幼いころから歌が好きで、4歳のときから米軍キャンプを回ってジャズを歌う[1]。小学2年生の時に神奈川県藤沢市辻堂へ転居し、藤沢市立辻堂小学校を卒業、藤沢市立湘洋中学校へ進学する。中学2年生で大田区立大森第三中学校へ転校、中学3年生で新宿区立大久保中学校(現:新宿区立新宿中学校)へ再転校する[2]

日本コロムビアのオーディションを受け保留となり、作曲家鈴木淳の元で1年4ヶ月レッスンを受ける。デビュー前は橋幸夫こまどり姉妹前座歌手を務めていた[3]。1969年、21歳の時「雨に濡れた慕情」で歌手デビューした。デビュー当時のキャッチフレーズは「苗字がなくて名前がふたつ」「魅惑のハスキーボイン」。芸名は、当時のフジテレビのプロデューサー千秋予四夫(せんしゅう よしお)の姓を「ちあき」と読ませ、坂本龍馬(本名)の「直柔」からなおみとした[4]

作詞家の吉田旺は、デビュー曲のほかに大ヒットとなった「喝采」「紅とんぼ」「冬隣」など数々の曲を作り上げてきた。その後もちあきと親交があるという。

1970年に「四つのお願い」や「X+Y=LOVE」がヒットし、人気歌手となる。同年、「四つのお願い」で『第21回NHK紅白歌合戦』に初出場、以降1977年の第28回まで8回連続出場した。

「四つのお願い」や「X+Y=LOVE」の頃は、いわゆるお色気アイドル路線にて活躍した。『元祖どっきりカメラ』や『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』などのバラエティー番組に出演し、歌手でありながら体当たりな仕事もこなした。

1972年、代表曲となる「喝采」(吉田旺作詞、中村泰士作曲)が第14回日本レコード大賞を受賞し、その年の年末から翌年にかけてオリコン集計で80万枚を売り上げる大ヒットとなる。この曲は当時、ちあきの実体験を元にして作詞されたという触れ込みでプロモーションされたが、実は全くのフィクションであった。実際には前座歌手時代に兄のように慕っていた若手役者が急死した体験を持ち、それと歌詞の内容が偶然似ていたために「実体験」とすることでプロモーションに活かすという戦略をとったといわれている。「喝采」、「劇場」、「夜間飛行」などの楽曲は、歌詞の設定や内容から「ドラマチック歌謡」といわれた。

レコード大賞受賞後も、1973年に「夜間飛行」、1974年に「円舞曲」などのポップス系ヒット曲を発表する一方、演歌では船村演歌ならやってみたいと、1975年に「さだめ川」、1976年に「酒場川」「矢切の渡し」(「酒場川」のB面曲として発表)」、1988年には「紅とんぼ」などの作曲家船村徹の作品を多く歌った。

また、ニューミュージックのアーティストから楽曲提供を受け、1977年に中島みゆきの「ルージュ」、友川かずきの「夜へ急ぐ人」、1978年に河島英五の「あまぐも」、1988年には飛鳥涼の「伝わりますか」などをレコーディングした。「夜へ急ぐ人」は『第28回NHK紅白歌合戦』でも歌われ、紅白の舞台でのちあきの鬼気迫るパフォーマンスが視聴者の度肝を抜き、白組司会の山川静夫は「なんとも気持ちの悪い歌ですねぇ〜」と発言するなど、話題になった[5]

1976年2月、テレビドラマ『大都会 闘いの日々』の第8話として「俺の愛した、ちあきなおみ」(脚本倉本聰、監督村川透)というサブタイトルの作品が放映された。実在する現役歌手がサブタイトルにフィーチャーされること自体異例であり、ちあきの代表曲「喝采」がドラマの内容に深く関わっているものであった。

バラエティー番組への出演も続け、演芸番組では美空ひばりの物まねを本人の前で披露しひばりの爆笑を誘ったり、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』では萩本欽一と視聴者からの葉書によるコントを演じたりするなど多才ぶりを見せた。

1973年、『元祖どっきりカメラ』やドラマ『くるくるくるり』などで共演し交流があった俳優の宍戸錠がちあきに実弟の俳優郷鍈治を紹介、1978年に郷と結婚した。その後郷は俳優を引退。ちあきの個人事務所「セガワ事務所」を設立し、郷が社長兼マネージャー・プロデューサーとなった。ちあきは「ヒット曲を追うのではなく、自分が歌いたい歌にじっくり取り組みたい」としばらくの「充電期間」に入り、以降歌手としてのテレビ出演の機会が減ったが、レコーディングはマイペースながらも精力的に行った。郷は夫婦の生活の基盤として広尾純喫茶「COREDO」を開店。郷がコーヒーを淹れる喫茶店は業界人の溜まり場となり、ちあきも充電期間中には店を手伝ったこともあった。1980年には、映画『象物語』主題歌の「アフリカのテーマ 風の大地の子守り唄/アフリカン・ナイト」をレコーディング、同映画のサントラ盤にも収録された。1981年10月、ビクターからシャンソンを歌ったアルバム『それぞれのテーブル』が発売された。同年11月4日、新宿ルイードで約3年ぶりにステージに立ち、昔のレパートリーは1曲も歌わず全てシャンソンを歌った[6]。また、この頃は女優としてテレビドラマにも出演した。

1982年、1976年に発売されたシングル「酒場川」のB面に収録されていた「矢切の渡し」が梅沢富美男の舞踊演目に用いられたことで話題になり、日本コロムビアからシングルA面として再発売された。しかし、ちあきが当時ビクターに移籍していたことや、ちあきの当時の活動方針などから翌1983年2月に細川たかし盤が発売された際に廃盤になった。その後、細川盤はミリオンセラーを記録し、第25回日本レコード大賞を受賞した。しかし、有線チャートではちあき盤が1位を独走し、作曲者の船村徹も「なるほどねえ、いいところに目をつけるなと思ったよ。ただ、歌っている姿がおよそ見当もつかない。美声ではあるが細川君の歌い方は一本調子な感じで、ちあき君は観賞用‥細部まできっちりと聴かせる歌だから。正直に言うと細川盤は、楽曲の難しい部分を省略しているので『何だ、これならオレにも歌える』と世間に思わせる歌い方でしたね。‥」とちあきの「矢切の渡し」を評価している[7]

1983年、ビクター時代唯一のシングル「Again」が発売された。

1980年代前半にはLP『それぞれのテーブル』でシャンソンのほか幅広いジャンルの歌を歌った。『THREE HUNDRED CLUB』ではスタンダード・ジャズを歌い、洋楽のカバー・アルバムもリリースしている。また早くからポルトガルの民族歌謡ファドに関心を示していたといい、自ら歌ったファドを収めたアルバム『待夢』を発表。1986年にはTBSテレビの旅番組の企画でポルトガルを訪問、現地の風土や人々の生活にも触れた[8]

またこの頃には、本人の演劇性やコミカルな面を活かし、女優やタレントとしての才能も買われ、テレビでの活躍の場を広げた。1987年からの大日本除虫菊「タンスにゴン」のCMシリーズでは、癖のある主婦を演じる。第一作は街角の公衆電話から「いつものところで・・・」と男に怪しい連絡をするバージョン。タンスにゴンを手に座卓の前で泣きじゃくったり、1986年に木野花もたいまさこが出演し流行語となった「亭主元気で留守がいい」以来のブラックユーモアを引き継ぎ、「これやり出すと長いのよねぇ」「あたしゃ愛より金が好き」など、アクの強い台詞を交えたCMに出演した。中でも自転車に乗った共演者・美川憲一に「もっと端っこ歩きなさいよ」と注意される1990年に放送されたバージョンは話題を呼び、美川の再ブレイクのきっかけにもなった。自動車教習所編(美川憲一と共演)、デュエット編(内田裕也と共演)なども作られ、面白いCMシリーズとして知られた。

1988年、テイチクに移籍し、シングル「役者」を発売、約10年ぶりに本格的な歌手活動を再開し、テレビの歌番組に出演するなど精力的な活動を行う。『NHK歌謡パレード'88』のオリジナルソングとして番組内で歌唱した「紅とんぼ」が話題となり、『第39回NHK紅白歌合戦』に11年ぶりの出場を果たした。1989年1月、母が死去[9]

水原弘のオリジナル曲をカバーし1991年に発表された「黄昏のビギン」は同年(京成電鉄スカイライナー」)と1999年 - 2003年(ネスレ日本「ネスカフェ・プレジデント」)、2011年(トヨタ自動車の企業CM ReBORN DRIVE FOR TOHOKU)に、戦後間もない頃に小畑実が歌った曲をカバーした「星影の小径」は1985年(AGF「マキシム・レギュラーコーヒー」)、1992年(ヤナセアウディ」)、2006年(キリンビバレッジ「実感」)テレビCMに使われた。

1989年11月には初の舞台作品となるミュージカル『LADY DAY』に主演し、ジャズ・シンガーのビリー・ホリディ役を演じた。ほぼひとり芝居で進行するストーリーでの歌と演技は好評で、翌年も再演された。1991年にも舞台『ソングデイズ』で主演を務めている。

「かもめの街」や「冬隣」、現時点でのラストシングル「紅い花」などを作曲した杉本眞人は「もっとも尊敬する歌手はちあきなおみ」と語っていた。

しかし、1992年9月11日に夫の郷鍈治が病死。彼が荼毘に付される時、ちあきは柩にしがみつきながら「私も一緒に焼いて」と号泣したという[注 3]

その数日後ちあきは、「故人の強い希望により、皆様にはお知らせせずに身内だけで鎮かに送らせて頂きました。主人の死を冷静に受け止めるにはまだ当分時間が必要かと思います。皆様には申し訳ございませんが、静かな時間を過ごさせて下さいます様、よろしくお願いします」という書面のコメントを公表[10]。引退までは明言しなかったものの、これを最後に歌手業を含めた芸能活動を全面的に停止し、公の場には姿を現さず、マスメディアの取材等にも一切応じず、事実上の引退状態となった[11]。郷の死から半年後、義兄の宍戸錠が開いた「郷を偲ぶ会」にも姿を見せなかった。宍戸によれば、その後自身とも全く交流がなくなり、2010年に義姉(宍戸の妻)の游子が死去した折にも連絡はなかったという[12]

郷は瀬川家(ちあきの実家)に婿入りしており、ちあきの母が眠る瀬川家の墓にともに葬られている[13]。ちあきはその墓のある東京都心の寺の近くにマンションを購入し在住しており、彼岸月命日には郷の墓参を欠かさないという[14][15]

1992年の芸能活動休業後も、毎年のようにベスト盤CDやLP復刻盤、リマスタリング盤などのリリース、既発表LPのCD化、が続いている。2000年に発売された6枚組CD-BOX『ちあきなおみ・これくしょん ねえあんた』は4万セット以上を売り上げ、歌謡曲系のCD-BOXとしては異例のヒットとなった。翌2001年9月には5枚組CD-BOX『The Anthology of NAOMI CHIAKI ちあきなおみ大全集』が発売された。更に2003年に通販のみで発売された10枚(巻)組CD/カセットBOX『ちあきなおみの世界〜うたくらべ〜』も1万セット以上の売り上げを記録した。2008年10月には6曲のライブ未発表曲、未発表ライブ映像のDVD、本人提供の未発表写真集を含めたCD-BOX『歌手―ちあきなおみ―』が発売された。プロデュースを手掛けた東元晃(日本コロムビアで「喝采」などちあきの曲を担当したプロデューサー。のちテイチク社長となる)がちあきを約2年にわたって根気よく口説き、映像を世に送り出すことを含めて了解を得たという。

2005年11月にはNHK-BS2で90分の特集番組『歌伝説・ちあきなおみの世界』が放送された。これは反響を呼び、初回放送を含めてBS2・NHK総合で2007年8月までに計6回放送された。

また、2007年2月にはテレビ東京たけしの誰でもピカソ』で民放では初となる本格的な特集が組まれ、2008年1月25日にはその続編も放送された。

2009年11月14日には、『歌伝説・ちあきなおみの世界』に次週放送の番組予告・未公開映像素材を追加して、NHK-BS2で『歌伝説 ちあきなおみ・ふたたび』として15分間延長の上、改めて放送された。翌週11月21日には『BSまるごと大全集 ちあきなおみ』が生放送された。この番組は、事前に視聴者からちあきの歌へのメッセージ・リクエストを受け付け、それを基にした楽曲の歌唱映像を2時間にわたり一挙紹介したものである。

2013年11月16日には、NHK総合『SONGS』(第280回)でちあきが特集された[16]。過去の映像とともに船村徹や東元晃の証言を交えた内容で、同番組において長期休業中の歌手が扱われることは極めて異例であった[17]

デビュー50周年を迎えた2019年の4月17日にはコンセプトアルバム『微吟』が発売されたほか、同年6月16日にはBSテレビ東京で未公開映像などを交えた2時間の特集番組『ちあきなおみ 再び始まる歌姫伝説』が放送された[18]。『微吟』は同年11月、第61回日本レコード大賞企画賞を受賞[19]。売り上げも3万5000枚を超え、ヒット作となった[20]

ちあきに対する歌手復帰への期待は根強いものがあり[21][注 4]、ベスト盤などのCDのリリースや特集番組が放送されるたびに活動再開を待望する声も上がるが、亡夫から「もう無理して歌うことはない」という遺言があったとされ、本人も歌手復帰を期待する声や音楽関係者の説得に応じていないといわれている[22]。彼女の才能を高く評価していた義兄の宍戸錠も復帰を望んでいたが[23]、宍戸は2020年1月18日に死去[24]、その希望はかなわぬままとなった[25]

2020年8月、元の、そして最後のマネージャーであった古賀慎一郎による評伝『ちあきなおみ 沈黙の理由』(ISBN 4103535415)が新潮社から刊行された[26]2020年10月にはBS-TBSにて2時間の特集番組『魂の歌!ちあきなおみ 秘蔵映像と不滅の輝き』が放送された[27]

2021年3月には、2001年9月に発売された『The Anthology of NAOMI CHIAKI ちあきなおみ大全集』が復刻された[28]。人気や注目度は依然として高く、およそ30年にわたって活動再開はおろか公の場に姿さえ見せないことも相まって、「伝説の歌姫」等と称されるに至っている。このためちあきの消息や関係者の証言・回想などが芸能ニュースになることも少なくないが、その沈黙は依然として破られる気配はない。2019年以降、千秋与四夫・宍戸錠・中村泰士・鈴木淳らゆかりの人物が相次いで他界し、ちあきに追悼コメントの依頼もあったようであるが、これに応じた様子はなかった。なおちあき自身はいたって健康だという。古賀によれば、CDアルバムが売れているので(歌唱)印税収入があるほか、アパート経営などもしているため十分生活できるだろう、という。今でもちあきと直接交流がある数少ない人物の一人である東元はちあきについて「彼女は決して世間をシャットアウトしているわけではなく、いまも感受性豊か」だが、本人に歌手復帰の気持ちはもうないだろう、と述べている[29]

2022年10月には好評であった『微吟』に続く新たなコンセプトアルバム『残映』がリリースされた[30]。ちあきにとっては令和初のアルバムとなった本作だが、好調な初動売上を記録、2022年10月31日付オリコン週間アルバムランキング「演歌・歌謡」ジャンルで初登場1位を獲得した。同日付では前作『微吟』も同2位にランクインし、長期間全く活動していない歌手としては異例の1、2位独占を果たした[31]。デビュー55周年を迎える2024年3月には別音源(1989年レコーディング)の「雨に濡れた慕情」(‘89Ver.)・「喝采」(‘89Ver.)などを収録したコンセプトアルバム第三弾『銀嶺』がリリースされた[32]。『微吟』・『残映』・『銀嶺』と続くこのコンセプトアルバムシリーズは東元晃の監修による作品である[33]

衰えぬ人気を受け、特集番組の放送や再放送も増えている。2023年2月にはBS-TBSにて2時間の特集番組『表現者ちあきなおみ ジャンルを超えた魅惑の歌声』が放送[34]2024年5月には2時間の特集番組『ちあきなおみ デビュー55周年~心を照らす不滅の歌声~』が放送された(同年9月23日BSテレ東にて再放送)[35]。番組には東元が出演し、ちあきの楽曲や歌唱の特徴について往時の思い出を交えながら語った。更に同年9月16日にはNHKBSにて、NHKアーカイブスに保存されているNHK紅白歌合戦ビッグショー等での本人歌唱映像から11曲をセレクトした45分間の特集番組『ちあきなおみ〜NHK秘蔵映像で贈るデビュー55周年〜』(案内:リリー・フランキー)が放送された[36]

55周年を記念し、デビュー日の6月10日に全シングルタイトル曲・全オリジナルアルバム曲332曲にライブ音源を合わせたのべ425曲のデジタル配信を開始した[37][38][39][40]