オプテンノール (船)


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オプテンノール(オプテンノート, オランダ語: Op Ten Noort)は、1927年オランダ王立郵船会社nl:Koninklijke Paketvaart Maatschappij, KPM)が就航させた旅客船である。太平洋戦争の勃発後、オランダ海軍に徴用されて病院船となったが、1942年(昭和17年)2月下旬のスラバヤ沖海戦日本海軍により拘束された。その後、天応丸(てんのうまる)や第二氷川丸(だい2ひかわまる)の名で、日本海軍の病院船として運航された[1][2]。終戦直後の1945年(昭和20年)8月19日、舞鶴沖合(若狭湾)で自沈処分。戦後は、賠償問題や財宝伝説により注目された[3][4]

船首から見たオランダ客船時代のオプテンノール

オプテンノールは、オランダ王立郵船会社(KPM)のオランダ領東インド向け客船として1923年竣工の姉妹船プランシウス(5955総トン)に続き、アムステルダムのネーデルランド造船所で建造された。1927年に進水し、同年のうちに竣工している。プランシウスよりわずかに総トン数が大きいものの、設計はまったく同型である[5]

竣工時の船首は垂直に切り立った形状で、高い一本煙突が目立つ船影だった。船尾は優美なクルーザースターンとなっている[6]。なお、後述のように日本海軍による運航時には船首の改造や偽装煙突の装着などにより、船影が大きく変化している。

内装については、姉妹船プランシウスが広いサロンや黒檀の調度など豪華な設備を有しており、本船も同様であったものと考えられる。オランダ海軍による徴用時には、レントゲン室や火葬設備の追加などの改装がされている。日本海軍による使用時にも、詳細は不明だが、装飾的なレリーフなどが撤去され、客室が病床として敷きに変わるなどかなりの改造がされている[7]

船名は、KPM社の草創期に活躍したL.P.D. Op ten Noort (1847-1924)という人物に由来する[5]

オプテンノールは、はじめオランダの植民地支配下にあるジャワ島バタヴィアシンガポールバンコクサイゴンマニラモルッカ諸島バリ島=バタヴィアを巡る周回航路に就役した[5]。その後、姉妹船とともにスラバヤからバタヴィアなどジャワ島北岸の数港やブラワン(メダンの外港)を経由して、イギリスの植民地であるシンガポールに至る航路に使われ、現地のオランダ人に親しまれた[6]

なお1940年5月15日第二次世界大戦ドイツ軍の侵攻を受けたオランダ本国政府は降伏し、政府は王室ともどもイギリスロンドン亡命亡命政府を樹立しており、植民地政府とそこに駐留していたオランダ軍、そして本船は亡命政府の指揮下に入ることとなった。

1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が勃発すると、オランダ海軍は開戦当日に本船を徴用し、バタヴィアで病院船としての改装工事を施した。オプテンノールを病院船とすることは1942年2月4日に日本側に通告され、オプテンノールは2月19日に病院船として就役した[8]。2月20日に、磁気機雷対策用の舷外電路を装着するためスラバヤ軍港に入港したが、直後に日本軍機の空襲に見舞われ、至近弾で損傷、軍医従軍看護婦ら13人が死傷した[9]

2月28日、スラバヤ沖海戦における負傷兵救助のため航行中、日本の駆逐艦臨検を受けた[10]。第五戦隊(司令官高木武雄少将、旗艦那智)の記録では、オプテンノールを臨検したのは第四水雷戦隊(四水戦司令官西村祥治少将、旗艦那珂)所属の第2駆逐隊・白露型駆逐艦4番艦夕立となっているが[11]、実際には白露型3番艦村雨(第2駆逐隊)である[12]。 また原為一(当時、天津風駆逐艦長。海軍中佐)の回想では、同艦のオプテンノール臨検はスラバヤ沖海戦前の2月26日となっている[13]。臨検のためオプテンノールに乗りこんだ岩淵吾郎(当時、天津風水雷長)は、スラバヤ沖海戦の後だと回想している[14]

当時、スラバヤ沖合で行動していた第二水雷戦隊(二水戦司令官田中頼三少将、旗艦神通)の報告によれば[15][16]陽炎型駆逐艦7番艦初風と陽炎型9番艦天津風(2隻とも第二水雷戦隊、第16駆逐隊所属)による臨検は2月28日夕方で、オプテンノールを臨検中の村雨(四水戦・第2駆逐隊)を発見後、第16駆逐隊第2小隊(天津風、初風)は一旦引き返す[17]。だが第四水雷戦隊司令官西村祥治少将(那珂)より第二水雷戦隊(神通)に依頼があり、田中(二水戦司令官)は再び天津風を派遣してオプテンノールを抑留させた[18]。天津風側の結論は「指定海域(バウエン島北方海域)に碇泊後、3月1日以後は自由行動を許可す」であった[19][20][21]。 日本海軍の命令に、オプテンノールも一旦は従った。

しかし3月1日、オランダ側乗員は「救助活動ができないのならば指定海域にとどまる意味はない」と考え、オーストラリアパースへ向かおうと航行を再開した。日本側はオプテンノールの行為を「指示を無視して逃亡する行為」と判断し[22]、威嚇爆撃により停船させた[23][24]。 水上機母艦千歳搭載の零式水上偵察機搭乗員(山崎力義、二飛曹)によれば、『朝方のこのこ戦闘海域に入ってきた病院船』が指定停泊地点から東方に向けて逃走しつつあるのを発見、英文で警告したが反応がなく、針路上に60kg爆弾2発を投下して機銃掃射をおこなったと回想している[22]第三艦隊司令長官高橋伊望中将(旗艦足柄)は、指揮下の第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦神通)に対し「天津風をもってオプテンノールを護送せよ」と命じる[25][26]。 この命令に従い天津風(第16駆逐隊)は同日夜にオプテンノールと再合流[21]、同船をバンジャルマシンへ連行した[27][28]。なお、病院船に対する臨検や航路指示は交戦国の権利として認められており、重大な事情があり必要があれば抑留することも可能だった[29]

3月2日夕刻、2隻(天津風、オプテンノール)はバンジャルマシンに到着、本船は同地で敷設艦蒼鷹に引き渡された[30][31]。 なおスラバヤ沖海戦で沈没した連合軍艦艇生存者は、日本側駆逐艦()等に救助されたあと、一部はオプテンノールに集められた[32]

日本海軍は、オプテンノールをマカッサルへと碇泊させた。本船の碇泊期間は1942年10月まで9カ月も続き、その間の6月に誤爆を避けるためにオランダ船旗は降ろされて、日本海軍旗が掲げられた。マカッサル碇泊中、オプテンノールは負傷者を中心とした連合軍捕虜の収容に使われた。この状況に、オランダ側は強く抗議し[33]、日本側も反論[34]、外交問題となった。

1942年(昭和17年)10月、日本海軍は本船を日本本土へ回航して改装、病院船として使用することにした。回航の際には日本側乗員が運航し、オランダ人は医療関係者や高級船員だけが残され、同年12月の日本到着後に、日本での敵国人の抑留政策の一環として、広島県三次の抑留所へと移された。船名は、オプテンノールのもじりで天応丸(日本海軍の法令上は旧字天應丸[1]と改名される。 12月20日、天応丸は特設病院船に類別され、横須賀鎮守府所管と仮定[35][36]。本船はこの際の改装工事により、煙突が短く太い外観に変更されたほか、船尾甲板上に上部構造物が追加された。工事は1943年(昭和18年)4月までに完了した[36]。 同年4月25日に横須賀を出港してラバウルからの患者収容に向かって以後、ラバウルやトラック島との間で1944年(昭和19年)9月までに8回の航海に従事した[37]。任務中、アメリカ海軍によるトラック島空襲(昭和19年2月中旬)に遭遇した際には無傷だったが、同年7月25日にパラオで連合国軍機による空襲を受けた際には機銃掃射で乗船中の避難民や負傷兵ら4人が死亡した[38]

1944年(昭和19年)9月から、オプテンノールは横須賀において再び改装工事を施された。このときの工事は、垂直型の船首を上端が鋭く前に突きだしたクリッパー型船首に変更し、擬装用の第二煙突を追加するなど、外観を大きく変更するものであった。11月1日、天応丸は既存の病院船氷川丸にちなみ、第二氷川丸と改名された[1][2]。引続き横須賀鎮守府所管[2]。改名の理由は、天応丸の発音が「天皇」と同一で不敬であると思われたことのほか、元はオプテンノールであったことを隠蔽する意図があったと推定される[39]。両船(氷川丸、第二氷川丸)は誤認され易く、第二氷川丸側は注意を呼び掛けている[40]

改装を終えたオプテンノールは、新造病院船として連合国側に通告された[41]。第二氷川丸となってからは、1945年(昭和20年)7月にまで5回の航海をシンガポール方面と日本本土との間で行った[37]。1944年11月6日には、レイテ沖海戦で損傷した戦艦大和の戦死者33名の遺骨を受け入れ、ブルネイを出港した[42]。この間、1945年2月にシンガポール沖でイギリス軍の敷設した機雷に接触し、修理に2週間を要する損害を受けた[43]

オプテンノールの本来の任務は、天応丸、第二氷川丸時代を通じて、前線からの傷病兵や避難民の治療や救出であった。しかし、これら病院船としての任務の傍ら、兵員や軍需物資の輸送など戦時国際法違反の用途にも使用された。石油輸送に使用するため、真水タンクの一部は石油タンクに改装されていたと見られる[44]

1945年7月下旬以降、オプテンノールは舞鶴港に係留され8月15日終戦の日を迎えた。終戦まで生きのびたオプテンノールだったが、終戦直後の8月19日に、舞鶴港外の沓島近海でキングストン弁を解放したうえ、船体に爆雷を装着して遠隔操作で起爆して自沈させられた。自沈作業は舞鶴鎮守府の隷下にある舞鶴防備隊の掃海部隊により、秘密裏に遂行された。自沈を決定したのは海軍大臣米内光政であったとも言われる[45]。なお、作業にあたった決死隊24人が船とともに沈んで殉職したとの情報は誤りで、全員が無事に作業を終えている[46]

終戦直後の1945年9月10日、オランダ政府は日本政府に対し、オプテンノールの消息を照会した。これに対し、戦犯問題に発展することを恐れた旧日本海軍は、オプテンノールが抑留中の1944年に舞鶴出航後に行方不明となっているとの虚偽の回答を行い、代船の提供を申し出た[47]

その後、一旦はオランダ政府からの追及が途絶えたが、サンフランシスコ講和条約締結後の1953年(昭和28年)に、再びオプテンノールを話題に取り上げ、国際法上保護される病院船を不法に拿捕・沈没させたものとして船体の返還や損害賠償を請求してきた[48][49]

これに対し日本政府は、オプテンノールが拘束されたのは日本の作戦行動を妨害する戦時国際法違反行為に及んだため、病院船としての保護を受ける資格を喪失して抑留されたのであり、日本側の行為は違法性が無いと主張した[48]

長期の交渉の結果、1978年(昭和53年)に、日本政府が見舞金1億円を自発的に支払う代わり、オランダ政府は船の残骸等についての所有権が日本に帰属することおよび以後は一切の請求を行わないことを確認する協定が締結されて解決した[49]

オプテンノールについて、「自沈時に多量の貴金属などを搭載していた」との説が一部でとなえられ[3]、数度に渡ってトレジャーハンターによる沈船調査の対象となった[50]。この説によれば、「日本軍がオランダ領東インドで『略奪』した金250トンやプラチナ70トン、各国の金貨、宝飾品500トン以上、バラスト代わりの3千トンなどが、戦争犯罪の証拠隠滅のためにオプテンノールとともに沈められた」とされる[51]

1978年(昭和53年)から翌年にかけて、元軍令部嘱託を称する人物が代表者を務める海洋興発[53]が、遺骨収集事業の名目で潜水調査を行ったが、財宝は発見できなかった。1982年(昭和57年)には日本船舶振興会ダミー会社ナヒーモフ号の財宝探査にも関わった世界技術開発センターが、大蔵省の許可の下で調査を行い、ダイヤモンド入りと伝えられる大型金庫を回収したものの、実際の中身は空の桐箱であった[54]。その後、1993年(平成5年)などにもイギリス人実業家などによる調査が行われているが、財宝は見つかっていない。

三神國隆は、オプテンノールの財宝伝説は実在する隠匿物資の所在をごまかすために流された捏造情報だった可能性を指摘している[55]

2017年には海底の残骸が発見され、これに基づいてNHKがドキュメンタリー番組『追跡、巨大沈没船』を制作放映した。

  1. ^ a b c #S19海軍公報4849号p.1『内令第一二二九號 汽船 天應丸 右特設病院船トシ横須賀鎮守府所管ト定メタル處之ヲ解ク 昭和十九年十一月一日 海軍大臣』
  2. ^ a b c #S19海軍公報4849号p.1『内令第一二三〇號 左ノ船舶ヲ特設艦船トシ其ノ種別所管ヲ左ノ通定ム 昭和十九年十一月一日 海軍大臣|(船舶名)汽船 第二氷川丸|(特設艦船種別)特設病院船|(所管)横須賀鎮守府|』
  3. ^ a b 舞廠造機部 2014, p. 404「戦後自沈した艦船」
  4. ^ #天皇の金塊216-217頁
  5. ^ a b c 三神 2005, p. 64.
  6. ^ a b Seagrave (2003), p.59
  7. ^ 三神 2005, pp. 95, 96.
  8. ^ 三神 2005, pp. 66, 67.
  9. ^ 三神 2005, pp. 273–274.
  10. ^ #四水戦スラバヤ(2)pp.48-49『一五五五 村雨ノ一四〇度方向二〇粁ニ商船ラシキ檣ヲ発見直チニ確メニ行カシム』-『一六二〇 右商船ハ蘭国商船ト判明(此ノ海面敵艦ノ溺者多シ)』-『一六三五 村雨該病院船ヲ臨検次イデ之ガ監視抑留ヲ天津風ニ引継ギ村雨ハ間モナク復歸ス』
  11. ^ #S1703五戦隊日誌(2)pp.22-23『2-28|(略)(4)1630頃蘭国病院船1隻上陸泊地附近ニ航行中ナルヲ認メ夕立之ヲ臨検次テ天津風之ヲ「バウエアン」島北方ニ抑留ス』
  12. ^ #四水戦スラバヤ(2)p.23『一五五五村雨ノ一四〇度方向二〇粁ニ商船ラシキ檣ヲ認メ(蘭国病院船「オプテンノルト」)一六三五之ヲ臨検次イデ天津風ニ引渡ス』
  13. ^ #原(復刻版)13-14頁
  14. ^ 艦長たち続編 1984, pp. 188–189「非情、敵兵を救助せず」
  15. ^ #二水戦スラバヤ(1)pp.6-8『二、二月二十六日(月齢一〇.七)』
  16. ^ #S1703二水戦日誌(2)p.20『四.参考(イ)麾下艦船部隊ノ行動』
  17. ^ #二水戦スラバヤ(1)pp.28-29『一五四八 90°方向26000米ニ国籍不明ノ商船一隻ヲ発見2D/16dgヲ派遣確カメシム|一六一二 右ハ和蘭病院船(オプテンノート)ナルコト判明村雨臨検中ナリシヲ以テ天津風初風復皈ヲ命ズ』
  18. ^ #二水戦スラバヤ(1)p.29『一六五八 和蘭病院船ノ抑留ニ関シ4sd司令官ヨリ當隊ニ依頼アリ/一七五〇 天津風ヲ派遣之ヲ抑留セシム』
  19. ^ #二水戦スラバヤ(1)p.30『二〇三〇 天津風ハ右情況ニ鑑ミ和蘭病院船ニ対シ一日一二〇〇迄「バウエアン」島北方ニ投錨シアルベキ旨ヲ嚴命シ船団ノ東二十粁附近ヲ南下ス 本職亦兵力集結ノ要アルヲ認メ左ノ通3F参謀長5S司令官宛諒解ヲ求メタリ(以下略)』
  20. ^ #S1703二水戦日誌(1)p.9『天津風駆逐艦長|第二水雷戰隊司令官 第二艦隊第三艦隊各司令長官 第五戰隊 第四水雷戰隊各司令官〔第一護衛隊 第四潜水戰隊司令官 第八驅逐隊 第十六驅逐隊各司令〕|昨日ノ敵ノ溺者傷者収容ノ目的ヲ以テ「スラバヤ」ヨリ来航セル蘭國病院船「OptenNoort」号ハ村雨ニ續キ天津風臨検再調査ノ結果未ダ溺者等一名モ収容シ居ラズ且特ニ怪シキ点ハ認メザルモ我軍事行動ヲ目撃偵知セルノ理由ヲ以テ明三月一日二二〇〇迄「バウエン」島ノ北方海面ニ抑留碇泊セシム特令ナケレバ同時刻以後行動ノ自由ヲ許可セリ』
  21. ^ a b #S1703二水戦日誌(1)p.26『二日一〇〇〇第二水雷戰隊司令官(宛略)2Sd戰斗概報第三號(自二月二十八日至三月一日)一二十八日午前1D/7dgヲ補給ノ爲「バンジヤルマシン」ニ回航山風江風ヲ5Sニ復帰セシメ爾後二水戰(15dg 18dg 1D/8dg)ハ概ネ船団ノ東方哨區ニ在リテ第一護衛隊ノ支援 船団泊地東方警戒並ニ對潜掃蕩ニ任ズ/二、二十八日一六四五天津風ハ船団觸接中ノ敵飛行艇ヲ砲撃(使用彈数主砲一六)撃退シ又和蘭病院船(高級船員ノミニシテ傷者ハ収容シアラズ)ヲ臨検抑留セリ(中略)五、一日二三三〇天津風ヲシテ和蘭病院船ヲ「バンジヤルマシン」ニ護送回航セシム』
  22. ^ a b #南太平洋凱歌98-100頁『スラバヤ沖海戦』
  23. ^ #S1703二水戦日誌(1)p.18『一日一七〇一第二水雷戰隊参謀|第五艦隊参謀(曙驅逐艦長)|11Sf参謀ノ通報ニ依レバ「バウエン」島北方ニ抑留中ノ和欄病院船ハ一六〇〇頃監視艦不在ニ乗ジ同島北東端ノ一〇浬附近ヲ十六節ニテ東方ニ遁走シツツアリ 當隊之ガ抑留困難ノ状況ニアルヲ以テ然ルベク取計ハレ度』
  24. ^ #S1703二水戦日誌(1)p.19『十一航空戰隊司令官|一日二一三〇|第三艦隊参謀長〔第二水雷戰隊司令官 曙駆逐艦長〕|逃走セル和蘭病院船ハ飛行機ノ威嚇爆撃ニ依リ「バウエン」島東端九〇度三五浬ヨリ引返セリ目下陸戰協力(一符字不明)ヲ割キ監視中ナルモ水上艦船ニ依ラザレバ尚逃走(一符字)ノ虞アリ一八〇〇』
  25. ^ #S1703二水戦日誌(1)pp.18-19『第三艦隊司令長官|一日一七五五 第二水雷戰隊司令官/天津風駆逐艦長(曙駆逐艦長)|3F機密第五五九番電一日一五〇〇 二水戰司令官ハ天津風駆逐艦長ヲシテ蘭國病院船ヲ「バンゼルマシン」ニ護送セシメ補給ノ後原隊ニ復皈セシムベシ』
  26. ^ #S1703二水戦日誌(1)pp.19-20『第三艦隊司令長官|一日二二一〇 第二水雷戰隊司令官/天津風駆逐艦長〔第十一航空戰隊司令官 若鷹艦長 曙駆逐艦長〕|速ニ「バウエン」島ニ至リ和蘭病院船ヲ11Sfヨリ引継ギ「バンゼルマシン」ニ護送之ヲ若鷹艦長ニ引渡スベシ二一三〇』
  27. ^ 三神 2005, pp. 277, 278.
  28. ^ #原(復刻版)24-25頁
  29. ^ 三神 2005, pp. 67, 68.
  30. ^ #S1703二水戦日誌(1)p.25『天津風驅逐艦長|二日一七一八 第三艦隊司令長官/第二水雷戰隊司令官/第十六驅逐隊司令|「バンジエルマシン」着 和蘭病院船「オプテンノール」ヲ蒼鷹ニ引渡セリ一六五〇』
  31. ^ #S1703二水戦日誌(1)p.30『二(天候略)(略)一六五〇天津風抑留病院船「オプテンノルト」號ヲ率ヰ「バンジヤルマシン」着 同病院船ヲ蒼鷹ニ引渡シ補給/(四)二〇〇〇神通初風補給ノ爲「バンジヤルマシン」ニ向ケ哨區發速力十八節/(五)二〇一五天津風哨區ニ向ケ「バンジヤルマシン」發』
  32. ^ #雷海戦記200頁
  33. ^ #病院船不承認p.3『八月一日附瑞西公使館口上書譯文』
  34. ^ #病院船不承認pp.23-24『口上書』
  35. ^ #内令昭和17年12月(4)p.6『内令第二千三百四十四號 左ノ船舶ヲ特設艦船トシ其ノ種別及所管ヲ左ノ通定ム 昭和十七年十二月二十日 海軍大臣 嶋田繁太郎 |(船舶名)|(特設艦船)|(所管)|/|汽船 原地丸|特設掃海艇|横須賀鎮守府|/|同 天應丸|特設病院船|同(假定)|』
  36. ^ a b 戦利船利用予定表p.9「6,076|艦船名:オプテンノールト|種別:客|国籍:蘭|艦船名:天應丸|類別:特設病院船|所属:横(仮定)|年月日:一七.一二.二〇|年月日訓令:一八.一.三〇 第四七六號|工事場所:横浜|完成年月日予定( )ハ予定:一八.三.三一|記事略」
  37. ^ a b 三神 2005, p. 358.
  38. ^ 三神 2005, pp. 173–177.
  39. ^ 三神 2005, p. 210.
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  41. ^ 三神 2005, pp. 201, 202.
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  43. ^ 三神 2005, p. 240.
  44. ^ 三神 2005, pp. 211–214.
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  47. ^ 三神 2005, pp. 309–313.
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  50. ^ #天皇の金塊326-327頁
  51. ^ 三神 2005, pp. 327–328.
  52. ^ 三神 2005, pp. 335, 339.
  53. ^ 発起人には野村直邦ら元海軍高官が名を連ねていたが、調査当時には他界していた[52]
  54. ^ 三神 2005, pp. 341–343.
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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
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    • 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030093700。
    • 『昭和17年2月24日~昭和17年3月11日 第2水雷戦隊戦闘詳報(5)』。Ref.C08030093800。
    • 『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030094200。
    • 『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030094300。
    • 『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030094400。
    • 『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030094500。
    • 『昭和17年3月1日~昭和17年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030094600。
  • 宇垣纏、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書』原書房、1968年1月。
  • 岡本孝太郎『舞廠造機部の昭和史』文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3
  • 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編 17人の艦長が語った勝者の条件』光人社、1984年4月。ISBN 4-7698-0231-5
    • (184-200頁)「独断反転」<駆逐艦「榧」艦長・岩淵悟郎少佐の証言>(オプテンノール鹵獲時の駆逐艦天津風水雷長)
  • 高橋五郎『天皇の金塊』学研パブリッシング、2008年5月。ISBN 978-4-05-403600-0
  • 高橋五郎『天皇の金塊とヒロシマ原爆』学研パブリッシング、2008年10月。ISBN 978-4-05-403933-9
  • 『南太平洋の凱歌 わが機動部隊の快勝』今日の話題社〈太平洋戦争ドキュメンタリー〉、1968年11月。
    • 千歳水上機隊元海軍少尉山崎力義『〔水上機戦記〕水偵ここにあり 下駄履機にこの闘魂 長駆死の索敵行
  • 橋本衛『特型駆逐艦「雷」海戦記 一砲術員の見た戦場の実相』光人社〈光人社NF文庫〉、2014年8月(原著1999年)。ISBN 978-4-7698-2255-4
  • 原為一『帝国海軍の最後』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。ISBN 978-4-309-24557-7
  • 三神國隆『海軍病院船はなぜ沈められたか―第二氷川丸の航跡』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年。
  • Seagrave, Sterling / Seagrave, Peggy, Gold warriors: America's secret recovery of Yamashita's gold, Verso, 2003.