ピイ


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曖昧さ回避 この項目では、ミャンマーの都市について説明しています。古代エジプト第25王朝のファラオについては「ピイ (ヌピア)」をご覧ください。

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ピイピー[1]ピィ[2]とも; Pyay, Py; ビルマ語: ပြည်(မြို့)ALA-LC翻字法: Praññʻ (mrui')、IPA: /pjì mjo̰/ ピー・ミョオ)は、ミャンマー中部バゴー地方域の都市。エーヤワディー川(旧称イラワジ川)に面し、ヤンゴン(旧称ラングーン)の北西260kmに位置する。 [3] シュエサンドーパゴダ英語版ရွှေဆံတော်ဘုရား)の街として知られている。 人口は2014年時点で約25.1万人

ピイ
ပြည်မြို့
ピイ
ピイ
位置

ピイの位置(ミャンマー内)

ピイ

ピイ

ピイ (ミャンマー)

ピイの位置(東南アジア内)

ピイ

ピイ

ピイ (東南アジア)

座標 : 北緯18度49分01秒 東経95度13分05秒 / 北緯18.81694度 東経95.21806度
行政
ミャンマーの旗 ミャンマー
 地方域 バゴー地方域の旗 バゴー地方域
 市 ピイ
人口
人口 (2014現在)
  市域 251,145人
その他
等時帯 ミャンマー標準時 (UTC+6:30)

旧称はプローム: Prome[1]

歴史

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1910年のストランド道

640年、ビルマ人の最初の国家であるスリ・クセトゥラ王国が建国された。首都のスリ・クセトゥラはピイの近くに有った。46km2の都市を城壁が囲む、東南アジア最大の城壁都市だった。エーヤワディー川デルタの発達と、モン人・タイ人の侵攻によって王国は衰退した。 [4]

1057年パガン王朝初代王であるアノーヤターがミャンマー南部を征服し、スリ・クセトゥラ遺跡を破壊した。ピイはピュー人発祥の地と言われている。

1825年第一次英緬戦争プロームの戦いでピイは一度占領された。

1853年第二次英緬戦争によってピイはイギリス領となり、プロームと改名された。

1862年、火事で壊滅し、道路しか残らなかった。

1874年、自治体に昇格した。イギリスはイラワジ小艦隊社を設立し、上ビルマ下ビルマの水上輸送を発展させた。

1942年プロームの戦いによって日本軍が占領した。

1945年5月、イギリス軍が占領した。

画像

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  • シュエサンドーパゴダ

  • シュエサンドーパゴダの近くの仏像

  • ピイ近郊のボーボージーパヤー(ビルマ語: ဘောဘောကြီးဘုရား

  • 日本兵を探すインド兵(1945年5月3日、プローム駅)

脚注

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  1. ^ a b 『小学館 世界大地図』2009年。ISBN 978-4-09-526066-2
  2. ^ 瞑想と霊性のミャンマー』光祥社、24頁。
  3. ^ Pyay. (2005). In The Hutchinson Unabridged Encyclopedia including Atlas. Retrieved March 13, 2008, from http://www.credoreference.com/entry/6458618
  4. ^ Cœdès 1968, pp. 62–63, 77.

関連項目

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