近藤大亮


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堺市立錦綾小学校3年生のときに新浅香山ニュースターズで野球を始め[2]、4年生から投手を務めた[3]堺市立浅香山中学校ではオール住之江(ヤングリーグ)でプレーし[3]、3年夏には全国大会に出場[2]浪速高等学校では2年秋からエースを務め[2]、府ベスト8に入った[4]。3年夏は府ベスト16であり[3]、甲子園出場経験は無し[2]

大阪商業大学への進学後は1年春から関西六大学野球のリーグ戦に登板したが[2]、3年春までは度重なる故障に苦しんだ[3]。ただ、ウエイトトレーニングに取り組むようになると、肩の痛みが癒えて球速もアップし、4年秋のリーグ戦では5勝0敗、リーグ2位の防御率1.18と圧巻の成績[3]でチームを42季ぶりの優勝に導き、最優秀投手に輝いた[5]。大学4年間ではリーグ戦通算13勝12敗[4]。その後の関西地区大学野球選手権では、関西学院大学との2回戦でノーヒットノーランを達成[6]。チームは同選手権初優勝を果たし、31年ぶり3度目の明治神宮大会への出場を決めた[3]。同大会でもチームは31年ぶりの白星を挙げた[7]

大学卒業後にパナソニックへ入社すると、1年目から主要大会に登板し[2]日本選手権でも3試合に登板[8]。2年目は夏に大阪ガスの補強選手として都市対抗に出場[9]。9月に開催された第27回BFAアジア選手権には日本代表として出場した[8]

2015年10月22日に開催されたドラフト会議にて、オリックス・バファローズから2巡目で指名を受けた[10]。12月9日に契約金8000万円・年俸1200万円(いずれも金額は推定)で仮契約した[11]。背番号は20。なお、チームには同姓の近藤一樹が所属しているため、報道上の表記およびスコアボード上の表記は「近藤大」となる。

2016年は春季キャンプを二軍でスタートしたが[12]、2月下旬に一軍へ昇格すると[13]吉田一将山田修義が故障離脱中などのチーム事情もあって、開幕ローテーション候補として先発機会が与えられた[14]。オープン戦で結果を残すと[15]、開幕ローテーション入りを果たし、開幕2試合目の埼玉西武ライオンズ[16]でプロ初登板初先発。しかし、右肩に違和感を覚え、3イニングを投げ終えたところで降板となり[17]、3月27日に出場選手登録を抹消された[18]。精密検査の結果、右肩腱板炎と診断され、実戦復帰までは1か月を要する見込みであることが翌28日に球団から発表された[19]。しかし、1か月以上経っても復帰の目処が立たず[20]、実戦復帰は8月30日の二軍戦であった[21]。ルーキーイヤーの一軍登板は前述の1試合のみに終わり、シーズン終了後にはフェニックスリーグへ参加し[22]、中継ぎとして6試合・7イニングを無失点に抑えた[23]。オフに240万円減となる推定年俸960万円で契約を更改した[24]。なお、この年の7月に近藤一樹がトレードで東京ヤクルトスワローズへ移籍したことにより[25]、報道上の表記およびスコアボード上の表記が「近藤」となった。

2017年は春季キャンプを一軍でスタートし[26]、開幕ローテーション入りを目指していたものの、オープン戦では結果を残せかった[27]。また、開幕前[28]には右肩の違和感を訴えて離脱[29]。5月20日にリリーフとして出場選手登録されると[30]、同26日の千葉ロッテマリーンズ戦でプロ初ホールド[31]、6月2日の読売ジャイアンツ戦ではプロ初セーブを記録[32]。その後はセットアッパーを任されるようになり[29]、8月10日の西武戦でプロ初勝利を挙げるなど[28]、シーズン終了までその役割を全うした。この年はチーム2位タイの55試合に登板して1勝1敗1セーブ・防御率3.07、チームトップタイの25ホールドを記録[33]。オフの11月16日から開催された第1回アジア プロ野球チャンピオンシップ日本代表に選出され[34]、同大会では2試合に登板した[35]。12月4日に行った契約更改交渉では、2540万円増となる推定年俸3500万円でサインした[29]

2018年は開幕を一軍で迎えるも[36]、調子が上がらず、4月23日に出場選手登録を抹消された[37]。5月3日に出場選手登録されて[38]以降は2度の登録抹消[39][40]と再登録がありながらも[41][42]、この年は52試合に登板。吉田一将山本由伸がセットアッパーを担っていたこともあり[43]、ホールド機会は少なく、3勝3敗9ホールド・防御率3.33という成績であった[44]。オフの11月30日に行った契約更改交渉では「金額にこだわりはない。中継ぎをどう評価していただいているのか確認したかった。勝ち試合で投げなければ評価されない、となるとモチベーションが湧かなくなる。ちょっと時間が足りなかった」とリリーフの評価についての話し合いがまとまらず、保留[45]。12月12日に行った2度目の契約更改交渉では、350万円増となる推定年俸3850万円でサインした[46]

2019年も開幕を一軍で迎えたが[47]、4月28日の西武戦では一死しか奪えずに4四球を与えて降板し、試合中に強制帰宅・二軍降格が決定した[48]。5月15日に一軍へ再昇格すると[49]、8回のセットアッパーを務めたが[50]交流戦後半に救援失敗が目立ち[51][52]、6月26日に出場選手登録を抹消された[53]。7月6日に再登録されると[54]、7回のセットアッパーを務めたが[55]、9月に入ってからの3登板のうち2試合で失点と調子を落とし[56][57]、9月9日の試合前練習では打球が顔面に直撃し、鼻骨骨折で翌10日に登録抹消となり[58]、シーズンを終えた。この年は好不調の波が激しかったものの[59]、52試合の登板で4勝6敗1セーブ・防御率3.44、チームトップタイの22ホールドを記録[60]。オフに1150万円増となる推定年俸5000万円で契約を更改した[59]

2020年は春季キャンプを一軍でスタートするも[61]、2月下旬に右肘を痛めて離脱[62]。新型コロナウイルスの影響で開幕が6月19日に延期されたが、実戦復帰は同24日の二軍戦であった[63]。その後は右肘の状態が良化せず、二軍では2試合に登板したのみで9月10日にトミー・ジョン手術を受けた[64]。オフに球団と育成選手契約を締結[65]。推定年俸は1250万円減となる3750万円、背番号は124となった[65]

2021年シーズンは全休となり[66]、10月20日に球団から戦力外通告を受けた[67]。12月9日にオリックスと再び育成選手契約を締結[66]。推定年俸は950万円減となる2800万円[68]、背番号は変わらず124となった[66]

 
オリックス時代
(2022年5月8日 京セラドーム大阪

2022年3月29日、母校である大阪商業大学とのプロアマ交流戦で1年9か月ぶりの実戦登板を果たした[69]。その後も二軍で実戦登板を重ね、ウエスタン・リーグでは8試合に登板して無失点。連投テストもクリアするなど、順調な回復を見せると、4月24日に支配下登録となった[70]。背番号は20[71]。4月26日に出場選手登録となり[72]、同28日の北海道日本ハムファイターズ戦で964日ぶりとなる一軍復帰登板を果たし[73]、同30日の西武戦では自己最速の154km/hを計測[74]。さらには勝利投手となり、初のお立ち台に上がった[75]。その後は7月に10日間の二軍再調整期間がありながらも[76][77]、一軍のブルペンを支えていたが、8月28日に実施したスクリーニング検査にて新型コロナウイルス陽性が判明し[78]、翌29日に特例2022により登録抹消[79]。離脱後のレギュラーシーズンでの一軍登板は無かったものの、この年は32試合の登板で1勝4敗15ホールド2セーブ・防御率2.10を記録し[80]、チームのリーグ連覇に貢献[81]東京ヤクルトスワローズとの日本シリーズで一軍復帰を果たすと、7試合中3試合に登板し[82]、チーム26年ぶりとなる日本一にも貢献した[81]。オフに1400万円増となる推定年俸4200万円で契約を更改した[81]

2023年は4年ぶりに開幕を一軍で迎えたが[83]、4月28日のロッテ戦では同点の延長10回表に登板するも、1安打2四球で満塁とし、犠飛を打たれて敗戦投手[84]。7試合の登板で0勝1敗・防御率4.91[85]という成績で翌29日に出場選手登録を抹消された[86]。6月3日に再登録されるも[87]、2試合に登板したのみ[88][89]で同8日に登録抹消[90]。9月6日に再登録され[91]、同日の西武戦では1回無失点に抑えたが[92]、その後の登板機会が無いまま、9月24日に出場選手登録を抹消された[93]。同28日に特例2023の代替指名選手として再登録されるも[94]、2試合に登板したのみ[95][96]で10月2日に登録抹消となった[97]。この年は二軍では33試合の登板で1勝0敗6セーブ、防御率1.08と好成績を挙げていたものの[98]、一軍では12試合の登板で0勝1敗、防御率5.11という成績に終わった。

2023年11月8日、金銭トレード読売ジャイアンツへ移籍することが発表された。背番号は30[99]。推定年俸は前年と変わらず4200万円[1]。16日に入団会見が行われ、編成本部長の吉村禎章からは「昨年ぐらいから注目してました」と明かされ、勝ちパターンの役割を期待された[1]